おおはたまちができるまで~南部のはなし~103
お世話になっております、シヨウx3です。
そのころの中央情勢(Ⅳ)
多賀国府の奪還(2)
ところが吉良貞家は実は密かにその顕信軍の南下を待っていたようです。
国府の留守を守っていたのは北畠守親・南部伊予守・浅利尾張守・宮城郡の山村一族などでした。
急を聞いて顯信は軍を返して、多賀に駆けつけましたが間にあいませんでした。
四日間の戦いで、ついに三月十五日、国府は再び吉良軍に奪われてしまったのです。
顯信の国府占領もわずか三月余の短い期間で終わりました。
鎌倉占領も一時は成功しましたが、その期間は国府よりもさらに短く、わずか十日ばかりの夢に終わったのです。
北畠親房も京都を回復したので、諸将と共に華やかに入京したのですが、やはりわずか二十三日の短い期間で、再び義詮の大軍のために京都を奪い返されてしまいました。
足利氏の内紛という、わずかなスキをついて、南朝待望の京都回復、鎌倉占領、多賀国府奪還という大目標が一時成功はしたのですが、それもつかの間の喜びに終わり、あっという間にまた再び元の形に返されてしまったのです。
多賀の国府を奪われた南朝軍は、宮城郡の山村城や小曽沼城・一名坂城(いちなざかじょう、仙台市の北10㌔の泉市)などに逃れました。
吉良方ではこの残敵掃討を和賀氏に命じています。
和賀一族は翌年(文和二年=正平八年)一月十日に和賀を出発し、十八日には一名坂城・小曽沼城を落城させ、十九日には山村城を攻撃しました。
と、和賀陸奥守義綱の軍忠状(報告書)に記録されています。
南部伊予守というのは、宗家十一代信長です。
浅利尾張守というのは、今の秋田県北秋田郡大舘や扇田付近の領主であったということです。
そして信長は再び元の武家方に仕えることになったのでした。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1