おおはたまちができるまで~南部のはなし~101
お世話になっております、シヨウx3です。
足利氏の内乱に決着が着きます。
そのころの中央情勢(Ⅲ)
足利氏の内乱(3)
四、いったん和睦した尊氏、直義の兄弟が再び不和となる
●直義は身の危険を感じ、越前を通り鎌倉に逃れる。
●尊氏は鎌倉の直義を討つために、吉野の朝廷に願い出て降参をする。
●条件としては、三種の神器(偽物)を賀名生に返し、年号も観応をやめて、南朝の年号正平に統一すること(正平の一統)
●鎌倉に向かった尊氏は、直義と駿河や伊豆で戦ったが、なかなか勝敗が決まらず、尊氏は再び和睦を申し入れる。
●正平七年一月五日、和睦をした二人は鎌倉に入ったが、尊氏は直義を延福寺に押し込め、ついに二月二十六日直義を毒殺してしまう。
京都の回復
このように北朝方で起こった内乱の結果、最後に生き残った首脳部は尊氏と義詮の親子だけになりました。
その尊氏は今鎌倉にいるし、京都を守っているのは義詮だけです。
この絶好の機会を南朝側の総指揮官・北畠親房は見逃すはずはありません。
尊氏軍が京都を出発すると、親房は直ちに全国の南朝方に指令を出し、一斉に京都を攻撃するよう命じました。
正平七年(1352)二月、これに応じて兵を上げた親房の三男・顕能と楠木正儀(まさのり、正行の弟)は、南朝軍を率いて京都を攻め、留守役の義詮を追い出して、官軍はついに十七年ぶりで京都の回復に成功しました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
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