こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~87

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし87、顕家、師行なきあとの話に入っていきます。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

根城南部氏の五代・政長

 延元三年(1338)という年は、南朝方にとっては最悪の年でした。

せっかく西上した奥州軍も、阿倍野や石津の戦いで全滅し、大将軍顕家や南部師行は戦死をし、そのほかに新田義貞福井県の藤島で非業(思わざる)の最期を遂げています。

 顕家亡き後は、弟の顕信が後を継いで陸奥鎮守府将軍に任ぜられました。

その顕信や結城宗宏の意見で、陸奥に再び南朝勢力を盛り返そうと、伊勢から船で奥州に下ることにしました。

同じ年の九月に志摩(三重県)熊野(同)の水軍の援助を得て、五百余隻の船に分乗し、伊勢の大湊から船出をしました。

しかしあいにくの台風に襲われ、船はみな散り散りとなり、各地に流されてしまったのです。

 義良(のりよし)親王北畠顕信・結城宗宏たちの乗っていた船は伊勢に吹き戻され、北畠親房・伊達行朝の船は常陸茨城県)に流れ着き、宗良(むねよし)親王・守永(もりなか)親王の船は駿河静岡県)に漂着しました。

 

 でも不幸はそれだけではありませんでした。

南朝側の有力な老将・結城宗宏が伊勢で病気のために亡くなってしまったのです。

宗宏は

「朝敵を滅ぼすこともできずに死ぬのは残念だ。わしの死後には仏事もお経もいらない。ただ朝敵の首をわが墓前に供えてくれ。」

と言って亡くなったということです。

 

 さらにまたその翌年八月十六日には、これまで南朝側の中心として指導されてきた後醍醐天皇も、風がもとで一週間病んだだけで亡くなられました。

 

 こういう情報は直ちに北朝方に伝えられていきます。

北朝側の勢いはますます盛んになり、世はまさに南風競わずの時勢になったのです。

 

f:id:komeikanendo:20210703002745j:plain 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

 つづく

 

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