おおはたまちができるまで~南部のはなし~88
お世話になっております、シヨウx3です。
劣勢になった南朝方はどうなっていくのでしょう。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
根城南部氏の五代・政長(2)
南朝方劣勢の中で、根城南部氏はどうしていたのでしょうか。
師行が石津で戦死をしたので、根城南部氏の五代目を継いだのは、師行の養子(実は弟)の政長でした。
政長は宗家の三代・時実の子、政行の三男でした。
父の政行は波木井実継の養子に入った人なので、恐らく政長は甲斐で生まれ甲斐で育ったと思われます。
新田義貞の鎌倉攻めのときには、政長が奥州から駆けつけて活躍しました。
そしてその後はまた本領の甲斐に帰ったようです。
「三翁昔話」によれば本国でもたびたび戦功があり、建武元年五月三日に後醍醐天皇から倉見山中野入道の跡地三分の二ほかを賞として賜っています。
この領地の高さは八千石で、本領四万石(光行の父遠光の信濃領を合わせたものでしょうか。南部六郷は計二千二百五十石と言われています。)
それに兄師行が拝領したという一万石と合わせて、南部氏の領地は合計五万石になったと伝えられています。
政長は師行が国代に任ぜられたので、その後まもなく根城に下向したのでしょう。
建武二年(1335)三月十五日には、七戸の結城朝佑(ともすけ)の跡地を新しく給与されています。
それから二年後の延元二年に、師行が第二次の西上戦に出発してからは、政長は兄の遺訓を守り、あくまでも北奥で、南朝支持勢力の中心として活躍をしました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
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蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1