おおはたまちができるまで~南部のはなし~52
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
犬房丸伝説のはなし、その3です。
南北朝時代の南部氏6
犬房丸伝説と南部政長3
この「犬房丸」についてはまた、別に次のような話も「三翁昔話」には伝えられています。
犬房丸(祐時)の子二人のうち、長男の祐朝は左衛門次郎と称し、後に津軽に移り、早川氏を称しました。
次男の祐光は三戸の名久井に居城を構えたので、名久井工藤氏と呼ばれました。
その子工藤某には男子が無かったので、甲州より下向した南部次郎行長(あるいはその子)が婿入りをし、工藤氏を継いだそうです。
南部氏に仕えて、屋敷が三戸の東にあったので、家名を「東(ひがし)」といい、東家の元祖となりました。
この行長は時長の子で、師行兄弟の甥に当たるので、南北朝の頃に、新田義貞の使いを受けた政長は、あるいはこの名久井にいたのかもしれません。
鎌倉攻めの際「奥州より最前に馳せ参じた」という奥州は、この名久井であったということも考えられます。
延慶三年(1310)ごろには前述のように、政行の後妻、了心尼の計略により領地が資行に独占され、政長ら兄弟は、甲州には住みにくくなっていました。
おそらく狭い山国の甲州には、何の未練もなかったのではないでしょうか。
「三翁昔話」にも、
それ(実長代)より数代を経て、甲州大いに乱れ、
波木井は住居なり難しくなったので、奥州八戸に下向ある
と書かれています。
師行・政長・行長をはじめ、宗家の義重・仲行・茂行たちまで天皇方に属し、師行兄弟は新天地を求めて奥州に下向したのでしょう。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]