やるための気構え
お世話になっております、しょう3です。
前回、やりたいことや、やるべきこと、そしてそれに伴った収益がないとホザきましたが、よ~く考えりゃ、そりゃ収益には繋がらないだろうなとは自分でも思ってます。
だいたい私は仕事が終わると、帰宅する車の中で、ザックリとこれから家でしなきゃいけない作業を順番立てて、運転しながら考えているのですが、
いざ家に着いちゃうと(最近までは)暑さにかまけて、どうでもよくなってしまいました。
んでアルコールに手が伸びるわけです。
そうなると酔いが回って、するべき作業がどうでもよくなって、ビール腹のブタと化して、明日、明日が永遠と続いたわけですね…。
「飛べないブタはただのブタだ。」
とはポルコ・ロッソの有名なセリフですが、
飛ぼうともしない、ぐうたらなブタに、未来などあるはずがありません。
自分がどうなりたいか考えているのなら、今すぐ動け
というのが、ここ数年の、私なりの立ち直り方法のひとつです。
楽して稼げるなどと、50年以上生きてきて、思ってはいません。
でもこの間、実家から、お中元でもらったビールを3ケースぐらい貰ってきたんだよなぁ…。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~103
お世話になっております、シヨウx3です。
そのころの中央情勢(Ⅳ)
多賀国府の奪還(2)
ところが吉良貞家は実は密かにその顕信軍の南下を待っていたようです。
国府の留守を守っていたのは北畠守親・南部伊予守・浅利尾張守・宮城郡の山村一族などでした。
急を聞いて顯信は軍を返して、多賀に駆けつけましたが間にあいませんでした。
四日間の戦いで、ついに三月十五日、国府は再び吉良軍に奪われてしまったのです。
顯信の国府占領もわずか三月余の短い期間で終わりました。
鎌倉占領も一時は成功しましたが、その期間は国府よりもさらに短く、わずか十日ばかりの夢に終わったのです。
北畠親房も京都を回復したので、諸将と共に華やかに入京したのですが、やはりわずか二十三日の短い期間で、再び義詮の大軍のために京都を奪い返されてしまいました。
足利氏の内紛という、わずかなスキをついて、南朝待望の京都回復、鎌倉占領、多賀国府奪還という大目標が一時成功はしたのですが、それもつかの間の喜びに終わり、あっという間にまた再び元の形に返されてしまったのです。
多賀の国府を奪われた南朝軍は、宮城郡の山村城や小曽沼城・一名坂城(いちなざかじょう、仙台市の北10㌔の泉市)などに逃れました。
吉良方ではこの残敵掃討を和賀氏に命じています。
和賀一族は翌年(文和二年=正平八年)一月十日に和賀を出発し、十八日には一名坂城・小曽沼城を落城させ、十九日には山村城を攻撃しました。
と、和賀陸奥守義綱の軍忠状(報告書)に記録されています。
南部伊予守というのは、宗家十一代信長です。
浅利尾張守というのは、今の秋田県北秋田郡大舘や扇田付近の領主であったということです。
そして信長は再び元の武家方に仕えることになったのでした。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~102
お世話になっております、シヨウx3です。
足利氏の内乱のスキをついて動き出した南朝軍は…。
そのころの中央情勢(Ⅲ)
多賀国府の奪還(1)
この北朝方の内乱が東北の政局にも影響しないはずはありません。
六年前の正平元年に石塔義房に代えて二人の奥州探題を任命し、そのうちの一人畠山国氏は師直派で、もう一人の吉良貞家は直義の支持派でした。
中央の対立が影響して、この二人の争いはついに正平六年一月九日に爆発しました。
兵力では吉良方の方がはるかに畠山方より勝っていました。
二人の最後の戦いは仙台市の北東、岩切城(東北本線岩切駅付近)と、多賀城市にある新田城で行われましたが、二月十二日にはついに両城とも陥落し、畠山国氏とその弟直泰(なおやす)は自害してしまいました。
そのころ鎮守府将軍顕信は滴石城にいましたが、前に宇津峰城にいて宇津峰宮とよばれていた守永親王は出羽に逃れていました。
両探題が激戦を続けていたころ、早くも宇津峰宮は奥羽各地の武将たちに呼びかけて南朝方に協力するよう要請しました。
この呼びかけに応じて、伊達一族の宗遠(むねとお)や、田村一族の者がかけつけて、顕信の次男・守親(もりちか)指揮のもとに、宇津峰城を奪い返し、そこに南朝軍が集結しました。
一方滴石の顕信は、南部氏一族(宗家十一代・信長)や比内(秋田県大館市)の浅利一族、仙北郡の和賀行義、滴石一族などを率いて、秋田県横手から雄勝峠を越えて山形方面に南下をしました。
これは吉良勢の兵力分散を狙う牽制策でした。
それを知らずに吉良貞家は、弟貞常を総大将として、三月初めに山形に軍を派遣しました。
両軍は山形で遭遇戦を行いましたが、顕信は一進一退を続け、四月から五月までも戦を長引かせました。
そうしている間に顯信は使いをやり、宇津峰城に集結した南朝軍に北上を命じました。
宇津峰軍は途中十月二十二日柴田郡船迫(現・柴田町)で相馬軍などを破り、最後は仙台市を流れる広瀬川原で決戦が行われました。
その結果吉良方が敗れ、福島県海道方面に逃れました。
顯信は待望の多賀の国府を奪還し、正平七年の正月を国府で迎えました。
しかし北畠親房の大計画はあくまでも鎌倉にいる尊氏の打倒を目指していたのです。
なのでその後まもなく親房の命により、宇津峰宮や顯信軍は、その鎌倉攻撃に向かいました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~101
お世話になっております、シヨウx3です。
足利氏の内乱に決着が着きます。
そのころの中央情勢(Ⅲ)
足利氏の内乱(3)
四、いったん和睦した尊氏、直義の兄弟が再び不和となる
●直義は身の危険を感じ、越前を通り鎌倉に逃れる。
●尊氏は鎌倉の直義を討つために、吉野の朝廷に願い出て降参をする。
●条件としては、三種の神器(偽物)を賀名生に返し、年号も観応をやめて、南朝の年号正平に統一すること(正平の一統)
●鎌倉に向かった尊氏は、直義と駿河や伊豆で戦ったが、なかなか勝敗が決まらず、尊氏は再び和睦を申し入れる。
●正平七年一月五日、和睦をした二人は鎌倉に入ったが、尊氏は直義を延福寺に押し込め、ついに二月二十六日直義を毒殺してしまう。
京都の回復
このように北朝方で起こった内乱の結果、最後に生き残った首脳部は尊氏と義詮の親子だけになりました。
その尊氏は今鎌倉にいるし、京都を守っているのは義詮だけです。
この絶好の機会を南朝側の総指揮官・北畠親房は見逃すはずはありません。
尊氏軍が京都を出発すると、親房は直ちに全国の南朝方に指令を出し、一斉に京都を攻撃するよう命じました。
正平七年(1352)二月、これに応じて兵を上げた親房の三男・顕能と楠木正儀(まさのり、正行の弟)は、南朝軍を率いて京都を攻め、留守役の義詮を追い出して、官軍はついに十七年ぶりで京都の回復に成功しました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~100
お世話になっております、シヨウx3です。
足利氏の内乱の続きです。
そのころの中央情勢(Ⅱ)
足利氏の内乱(2)
二、尊氏の直冬(ただふゆ)征伐(観応の騒乱)
●尊氏には義詮のほかにもう一人腹違いの子があったが、本妻の子供ではなかったので一度も対面を許していなかった。
直義は哀れに思い、この子を養子として育て、そのころは直冬と名乗って、中国西部で八ヵ国の領主となっていた。
●師直は直義の後継者を絶やしてしまおうと、部下に命じていきなりこの直冬を攻撃させた。
直冬はかろうじて四国に逃れ、後九州に渡る。
●直冬は九州で反師直派の武士を集め、大きな勢力を持つようになった。
そして中国、東国でもこれに応じて兵をあげるものが出てくる。
●正平五年十月、尊氏はこれをみて直冬討伐の決意をし、師直兄弟と共に中国に向けて出陣。
三、直義吉野の朝廷に降参する
●坊さんになった直義はこのすきを見て京都を逃げ出し、河内(大阪府中部)の石川城に入った。
●そして近畿の兵を集め、さらに吉野朝廷に降参をして南朝の援助を仰ぐ。
●正平六年一月、直義は南朝軍と共に、南北から京都に押し寄せたので、義詮は京都を逃れる。
●二月十七日、知らせを受けた尊氏は、直冬征伐をやめて引き返し、摂津(兵庫県東南部)で直義と戦うも敗れる。
●仕方なく尊氏は直義と和睦し、師直と師泰兄弟を出家させ、政治には一切かかわらないことにさせる。
●二月二十六日、京都に向かう途中で、上杉重能の子、顕能(あきよし)が親の仇、師直兄弟を殺害。
●直義は再び政治にあずかり、直冬は九州探題に任ぜられた。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~99
お世話になっております、しょう3です。
尊氏にとって宿敵ともいえる南部政長が亡くなり、ほぼ北朝方の尊氏に軍配が上がりつつあった状況下の中、はたしてその足利方はどんな状況だったのでしょうか。
そのころの中央情勢(Ⅰ)
足利氏の内乱(1)
そのころ京都では、足利氏一族と重臣の高師直も加わって、北朝方の内乱で、親子兄弟の争いが起こっていました。
南部政長が亡くなる二年前(正平三年/1348)、四条畷の合戦で楠木正行(まさつら)を破った高師直は勢いに乗じて吉野を攻め、行在所(あんざいじょ)をはじめ寺院までも焼き払ってしまいました。
後村上天皇はやむなく、吉野の山奥、賀名生(あのう)に難を避けられ、南朝の勢力がすっかり弱まってしまいました。
これで北朝としては、当分の間南朝方から攻められる心配がなくなりました。
安心した足利方では、これまで互いに持っていた不満が爆発して、たちまち幹部の間で内乱がはじまってしまいます。
●ふだんから高慢な師直を憎んでいた直義は、兄尊氏に頼んで師直を執事*1から解任。
●正平四年八月十五日、腹を立てた師直は突然兵を起こし、直義の邸を攻撃。直義は尊氏宅に逃れ、師直は尊氏の邸を取り囲む。
●急な展開だったため尊氏は仕方なく師直の要求を入れ、直義を退けて出家させ、さらに直義の執事であった上杉重能(しげよし)、畠山直宗(ただむね)を越前(福井県)に流す。
●同年十二月、師直は人をやってその重能と直宗を殺害。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
*1:家事や政治を取り仕切る役目