おおはたまちができるまで~南部のはなし~98
お世話になっております、シヨウx3です。
ここまで見てきても、足利尊氏にとって南部政長がどんなに厄介な相手だったのかがわかると思います。
どうしても味方に引き入れたい尊氏でしたが…
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
政長の死(2)
尊氏は同年の十二月二十一日に吉良貞家と畠山国氏宛てに
「南部遠江守(政長)が降参をしたから、そのつもりで処置せよ。」
という御教書を送りました。
つまり政長が降参をしたなどという噂をまき散らして、北奧の官方を混乱させようとしたのです。
もちろん政長は降参などはしていませんでした。
しかしそれから四年後の正平五年(観応元年/1350)八月に、政長はついに病気で倒れてしまいました。
さすがの勇将政長も病気には勝てなかったのです。
「三扇昔話」には
八月十五日
御老病のところ御大病に至り、嫡孫(ちゃくそん=後継ぎの孫)信光君へ御家督を譲られ、弟政光には七戸二千石を譲らる。
と書かれています。
そして政長は譲状を二通書き、その二日後の八月十七日に、一族に見守られながら、安らかな眠りにつきました。
兄師行と共に甲斐から糠部に移り、先祖実長以来の勤王精神を守り通し、多くの賞を頂いて、志半ばとはいうものの、悔いのない一生を過ごしたといえるかもしれません。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~97
お世話になっております、シヨウx3です。
まるで北畠顕家を彷彿させる南部政長でしたが、さて…。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
政長の死(1)
その翌年正平元年(貞和二年/1346)に尊氏は多賀国府の石塔義房の代わりとして、一門の畠山国氏(くにうじ)と吉良貞家を奥州探題として多賀に赴任させました。
それはそのころ宇津峰と霊山(りょうぜん)に常陸から逃れてきた南朝方の残党が多くいるので、国府軍を強化してその残党を掃討するのが主なる目的でした。
ところがその霊山と宇津峰を攻撃するためには、背後の北奥で大きな軍事力を持っている南部政長の動きが気になります。
そこでまた尊氏は例によって政戦両様の策をたてます。
同じ年の四月十一日には政長に第四回目の勧降状を送りました。
「味方に加われば、本領はそのまま安堵する。」
というのです。
それでも政長は動きそうがないので、その年の十二月九日にはさらに、
「味方に参り、凶徒を退治すれば、賞は望みにまかせるであろう。」
と大きなエサを与えて、政長を引き入れようとします。
でも政長は相変わらずそれに応じようとはしませんでした。
それで仕方なく尊氏は、謀略作戦に出ていきます。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
続RINGOMUSUME
お世話になっております、しょう3です。
今回もチョットRINGOMUSUMEのことを書いていきます。
そもそもなんで50を過ぎてからRINGOMUSUMEにハマったのかが、自分でもよくわかりません。
とにかくRINGOMUSUMEのyou tubeチャンネルを見ていて元気になれました。
(別に元気がなかったわけではありませんが…。)
前にも雑記の中で何度か書いていると思いますが、
ゴダイゴのモンキーマジックで音楽に目覚めて、中学時代はベストヒットUSAのおかげで、がっつり洋楽にハマって、高校時代はBOΦWYのおかげで日本のロックに興味を持ち出し、東京で過ごした学生時代は洋楽のルーツを探求していました。
地元に帰ってきて就職して、聞いていたのはグランジとカラオケ用のJポップ。
年を重ねるごとに、洋楽も邦楽もあまり新しいものにはなじめなくなってきて、カラオケにもいかなくなり、ジャズやクラシック、民族音楽などの方が心地よくなってきました。
結婚して、カミさんの影響から、ソウルやR&Bも聞けるようになり、正直好きなジャンルのこだわりはなくなったと思います。
最近は演歌はまだなじめませんが、民謡は結構好きになってきてます。
んで、Nakamura Emiさんや、Blue Encountが好きになり、RINGOMUSUMEのファンになりました。
Nakamura Emiさんは30代でメジャーデビュー、Blue Encountも10年間インディーズで頑張って、やっとデビュー。もちろん音が好きで興味を持ちましたが、いろいろ調べていくと、二組ともそんなバックボーンがありました。苦労人です。なんとなく音に本物を感じます。
最近のカミさんのお気に入りは藤井風君とBTS。
それぞれのyou tubeチャンネルを何度と見せられて解説を聞かされました。
藤井風君は天才肌だと思います。
BTSは小さな事務所に所属していながら、自分たちで作詞作曲、ダンスの振り付けをして、とうとうアメリカの音楽賞を受賞してしまったそうですね。まさに苦労人集団です。
そんな努力を積み重ねてきたBTSにRINGOMUSUMEも同じものを感じました。
王林ちゃんのイメージからバラドルっぽいキャラが先行していますが、(正直私もそう思っていました。)先週発売されたアルバム「ETERNITY」のためのオンラインライブをyou tubeで見たのですが、彼女らの本物を確信しました。
キレッキレのダンスに、歌唱力。そこに適当という言葉は見当たりませんでした。
コメント欄にもありましたが、Mステで歌っている本物の彼女らを見たいと私も思いました。ローカルアイドルでいるのがもったいない完成度であると誰もがコメントしてました。
世界遺産登録記念にMステで「JOMON」を歌ってほしいです!
おおはたまちができるまで~南部のはなし~96
お世話になっております、シヨウx3です。
津軽の大軍を数少ない兵で立ち向かった政長の続きです。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
根城攻防戦(2)
敵将、曽我師助をはじめ四人の武将を討ち取ったのは、西沢右近光広(阿倍野で戦死した西沢民部行広の子)で、四人の名もはっきり記録されています。
(ただ、敵将師行を討ち取ったというのは、根城側からはそう見えたのですが、実は貞光が傷を負っただけだともいわれています。)
しかし結局根城軍が敵を領外に追い返したのは事実であったようです。
この興国二年から三年にかけての政長の活躍ぶりは、後村上天皇の上聞にも達し、天皇からの賞として栗田口国安の太刀一振(たちひとふり)と甲冑一領を賜りました。
この太刀と甲冑は今も遠野家に国宝として所蔵されているということです。
その他に鎮守府将軍顕信からは、興国六年(1345)二月十八日に、元尊氏の領地であった甘美郡(宮城県加美郡)を賜っています。
しかしこの甘美郡は、三迫よりさらに南にあるので、この拝領はただ名目上の賞であったかもしてません。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~95
お世話になっております、シヨウx3です。
完全に足利方に主導権を握られてしまった南朝方でしたが、曽我軍に糠部を襲撃されて、戻らざるを得なくなった南部政長はどうだったのでしょうか。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
根城攻防戦(1)
さて政長が急いで根城に帰ってきましたが、師助ほか津軽の大軍を相手として、いったい根城の戦はどうなったのでしょう。
敵方の記録「曽我文書」によると
曽我左衛門尉師助御教書*1を賜り、凶徒(悪者)南部六郎政長らの城に向かったところ、御敵滝瀬彦次郎以下の輩が道を塞ぎ防戦を致したため、同年夏頃より翌年秋冬に至り、数十度の合戦に貞光自身疵を被り、あるいは若党以下手勢百人が同じく疵を被る。輩下討ち死にの上、若干の凶徒らを討ち取りおわんぬ。
と記録されています。
この根城攻防戦は興国二年の夏から翌年秋まで一年以上もかかっています。
七戸や野辺地にも南部勢がいたので、おそらく根城に着く前上北郡辺りでも滝瀬彦次郎ほかの手ごわい抵抗を受けたのでしょう。
この知らせを聞いて政長は、急遽根城に帰ってきましたが、なにぶんにも多くの兵は、そのまま顯信の指揮下においてきています。
なので兵力ではとても敵にかないません。
津軽の大軍から攻撃を受けて、おそらく根城方は大変な苦戦をさせられたのでしょう。
その様子を「三扇昔話」は次のように伝えています。
曽我左衛門尉師助、同じく貞光根城に押し寄せ、去年より合戦数十度に及ぶ。
敵大軍なれば城兵ついに防ぎかね、すでに落城かと見え申すにつき、政長自ら城外に進み出、大勢が中に無二無三にかけ入り、切り回りたまへば、今まで気を落としたる者どもこれに励まされ、東西南北に敵を討ち取る。
政長君は数度の懸け合いに手傷をあまた負い給うといえども、ちっともひるむ気色なく猛威を振い、ついに大敵を追い払い、あまつさえ敵将師助をはじめ数人を討ち取る。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
*1:みきょうしょ、尊氏からの命令書
プロレスと世間
お世話になっております、シヨウx3です。
前田日明氏の「日本人はもっと幸せになっていいはずだ」という本を読みました。
大東亜戦争での日本軍大本営の偏った考え方から始まって、アメリカとの関係や、中国との関係、未だに残る官僚の大本営的思考と無責任さ。もう数年で起こるといわれている南海トラフ地震への政府の無対策さ、メディアの噓…。
テレビをほとんど見ない世間ズレしている私には、前田アニキが書いたこの本は、衝撃的な内容でした。
プロレスファンである私は、You Tubeの前田日明チャンネルはほぼ全て見ていて、対談などで見せる博識なところに、(エッそんなことまで知ってんの⁈)と毎回のように驚かされています。特にリングスなどの団体を立ち上げた経験から来る【都市伝説】シリーズが、実体験をもとに語っていて、真実味があって好きです。
私はこの本を読み終わった後、何故か中学生時代の友達の一言を思い出しました。
その友達の伯父さんが東京でスポーツ新聞社に勤めていて、スポーツ紙の一面にプロレスの写真が載る際の裏話を話してくれたのですが、
「新聞に載っているプロレスの試合の写真は、ほぼ前日に撮っている。」
という話でした。
当時、長州ファンのプロレス小僧だった私は、彼が何を言っているのか訳が分からず、そんなことがあるはずはない‼とかなりキレた記憶があります。
でも今回、前田アニキのこの本を読むと、(プロレスのことはほとんど書いていませんが)なるほどなと思えます。
例えば有名なタイガー・ジェット・シンによるアントニオ猪木新宿伊勢丹襲撃事件。
本来なら街中で襲撃したのなら、ジェット・シンは捕まってもおかしくないところが、新日本プロレスに対する厳重注意で終わっていますが、あきらかにヤラセ的なメディアを使った演出です。
そして国民はみんな騙されて、タイガー・ジェット・シンって人はヤバい奴だとイメージを植えつけられたわけです。
善と悪をメディアを使った演出で国民を洗脳する。
数十年前、プロレスの暴露本がブームになり、それまで(それこそ洗脳されて)真剣勝負だと思っていたプロレスが、実はエンターテインメントだったんだと自分に言い聞かせながら、徐々にプロレスから遠ざかっていきました。
それでも完全に見なくなったわけではなく、プロレス週刊誌などは毎週のように目を通していて、だんだんそれぞれのプロレス団体が作っている所属選手同士の戦いのストーリー性が面白くなって、チョット距離を置いて観察しているような感じになりました。
まあプロレスに関しては、そういう見方もありますよって話ですが、世の中もその延長線上にあるんだなと思います。
「メディアに踊らされるな」とはいろんな人の口から出て耳にします。
言論の自由とは言っても、インタビューを受けて、出来上がってきたものが全然伝えたかったことの三分の一にもなってない、または全く違う内容になっているということも多々あるようです。
でも国民はそんな裏事情は知らないから、新聞や雑誌、テレビに出たものはすべて正しいと思い込んでいるので、その記事を鵜吞みにしてしまい、メディアが作ったイメージを摺り込ませてしまう。
怖いですね。
そしてYou Tube。
こちらはある程度規制はかかってはいますが、自分発信なので、ある意味大暴露番組と言っていいかもしれません。
あまりにも核心を突いたモノは消されてしまいます。
そして消されるということは、真実ということですね。
ネット上はその繰り返しです。
前田アニキは本の中の対談で
よく真剣勝負というけど、所詮はUFCだろうとプロレスだろうと真剣勝負はない。
あるのは戦場だけ。あとはみんなゲームです。
そのゲームのルールによってリング上の戦いの見方が変わってくる。
どんな世界を作りたいのかと考えたらルールを変えるしかない。
今の日本で言えば、法律かもしれないし、言語空間かもしれない。
ただし、その前に絶対的に必要なのがどんな世界を作りたいかってことです。
と言っています。
いろいろと、この本の中には考えさせられることが詰まっています。
是非読んでみてください。
※どうでもよいことですが、私はジャイアント馬場さんと誕生日が一緒で、前田アニキとは一日違いです。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~94
お世話になっております、シヨウx3です。
劣勢になった南朝方は…。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
三の迫(はざま)の戦い(4)
一方常陸の南朝方でも、興国三年から四年にかけて、小田城(小田治久・北畠親房)、関城(関宗祐・宗政・北畠親房)、伊佐城(伊達行朝・春日顕国)、大宝城(春日顕国)などで抵抗を続けていましたが、これまで態度をはっきりさせていなかった白河の結城親朝が、興国四年八月十九日に足利方に降伏してしまいました。
その結果小田城・伊佐城が落ち、最後に残った関城・大宝城もついに高師冬(こうのもろふゆ)に攻められて、同じ年の十一月十一日には両城とも陥落してしまいました。
北畠親房は守永親王・恒良親王と共に辛うじて船で吉野に逃れ、後に残った春日顕国は捕らえられて首を討たれてしまいました。
この間に三の迫を逃れた北畠顕信は、石巻の日和山城にいましたが、力と頼む葛西清貞が病死したため、一族の南朝支持が怪しくなり、顕信は石巻を出て岩手郡滴石城(雫石町)に移りました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~93
お世話になっております、シヨウx3です。
南部政長が糠部に戻った南朝方・北畠顕信軍はこれからどうなるのでしょう。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
三の迫(はざま)の戦い(3)
南朝方がこの戦に勝つと、ほとんど国府を占領することになり、この戦の結果いかんを注目していた結城親朝も、おそらく宮方に味方するに違いありません。
常陸の小田城にいる北畠親房も、伊佐城にいる伊達行朝も大いにそれを期待し、奥州の南朝軍を合わせて、常陸の北朝勢を破り、第三次の西上軍を進めようと待ちかまえていたのです。
しかし政長が帰った後の三の迫では、どちらも兵力が均衡しているため一進一退を続け、一年経った興国三年(=康永元年/1342)九月になってもまだ勝敗が決しません。
両軍とも再三味方に援軍を送ってくれるよう呼びかけましたが、顕信方にはついにどこからも援軍は参りませんでした。
糠部に帰った政長も、津軽勢との戦が長引き、援軍どころではなかったのです。
でも石塔方には十月八日に、近くの金成郷の領主・岡本重親(しげちか)が手勢を率いて駆けつけてきました。*1こういう戦では、たとえ少数の兵でも新手が加わるとたちまち情勢が変わってきます。
南朝方でせっかく築いた館も次々に落とされ、ついに南朝方は大敗してしまいました。
主将の顕信はかろうじて逃れ、再び石巻の日和山城に逃げ延びました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
*1:この岡本重親については秋田の領主説と、海道軍説があります。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~92
お世話になっております、シヨウx3です。
足利尊氏が南部政長にしかけていきます。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
三の迫(はざま)の戦い(2)
尊氏の命で曽我軍が糠部を襲撃したという急報は、ちょうど政長が和賀氏との戦いが終わり、これから三の迫に出陣しようとしていたころに届いたと思われます。
さすがの政長も、留守の兵しかいない根城が襲われるとなると、どうしても帰らざるを得ません。
南朝方としては多賀の国府攻撃は、今が絶好の機会であるので、政長は一部の兵をそのまま残して手勢を率い、急いで糠部に引き返しました。
南下を目指している南朝軍の中から政長が抜けることは、やはり大きな打撃であったようです。
そのうえ、顕信としては白河の領主・結城親朝(ちかとも、宗宏の子)の援助を得て、南北から国府を攻撃する計画でした。
しかしその親朝は父とは違い、忠義などよりは目前の利益しか考えないような人間であったようです。
だから再三交渉を進めましたが、まだ勝敗がわからない南朝のためには動こうとしませんでした。
奥州の南部には南朝方の伊達氏一族もいるのですが、領主の伊達行朝は、北畠親房と共に台風に流されて、常陸に上陸しています。
その常陸でも北畠親房から結城親朝に、何十回(現在残っている文書だけでも五十六通)も手紙をやり、南朝方に味方するよう誘いましたが、それでも親朝は態度をはっきりさせませんでした。
仕方なく顕信は、南北からの多賀攻撃をあきらめたようです。
宇津峰からひそかに葛西氏の領地石巻に移りました。
おそらく海路を通って石巻に入ったのでしょう。
そして顕信は興国二年九月に奥州の南朝軍、葛西・南部・滴石(しずくいし)・川村氏らの軍を率いて南下し、宮城の北部三の迫(栗原郡栗駒町と金成町との中間)で、多賀から出てきた石塔義房軍と対戦しました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
おおはたまちができるまで~南部のはなし~91
お世話になっております、シヨウx3です。
南部の猛者、政長と足利軍の駆け引きは続きます。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
三の迫(はざま)の戦い(1)
興国元年(=暦応三年)六月二十五日、足利直義は再び政長に勧降状を送りました。
それは戦に強い政長が、宇津峰の顕信に呼応して動き出すことを政治的に抑えるためでした。
だが政長はこの勧降状も全く無視したのです。
そして逆にその秋根城の軍団を率い、浄法寺から七時雨(ななしぐれ)山を越えて西根まで南下し、雫石氏の協力を得て西根に要塞を築きました。
この砦は足利方の斯波氏を攻めるための根拠地であったのです。
この知らせを聞いて宇津峰の顕信はどんなに心強く思ったかしれません。
さっそく中・北部の南朝軍と、南部の南朝軍が連絡をとりながら南北から多賀の国府を攻める作戦をたてました。
しかしその年もすでに旧暦の十二月で、東北では雪が深く兵を動かすことができません。そこで年が明けた興国二年(=暦応四年/1341)二月に、まだ雪が残る中を、早くも政長は活動をはじめました。
味方に加わった紫波郡の河村氏の協力を得て、厨川(くりやかわ)(盛岡市)で足利方の稗貫出羽権守を討ち取り、それから南下をしてついに斯波氏を滅ぼしました。
そしてさらに和賀に攻め入り、和賀氏一族が立て籠っている岩崎城を攻め、鬼柳二郎清義を討ち取りました。
この頃までの根城軍の活躍は全く破竹の勢いでした。
この南部政長の動きを、足利尊氏は黙って見過ごすはずがありません。
同じ暦応四年二月七日付で、第三回目の勧降状を政長に送っています。
しかし政長はそれでもこの南下作戦をやめようとしないので、ついに尊氏は最後の手段、武力で政長を征服しようとしました。
相模(神奈川県)の曽我師助に命じて津軽に下向させ、曽我貞光と共に大軍で政長の本拠地糠部を襲わせたのです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1