おおはたまちができるまで~南部のはなし~95
お世話になっております、シヨウx3です。
完全に足利方に主導権を握られてしまった南朝方でしたが、曽我軍に糠部を襲撃されて、戻らざるを得なくなった南部政長はどうだったのでしょうか。
根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)
根城攻防戦(1)
さて政長が急いで根城に帰ってきましたが、師助ほか津軽の大軍を相手として、いったい根城の戦はどうなったのでしょう。
敵方の記録「曽我文書」によると
曽我左衛門尉師助御教書*1を賜り、凶徒(悪者)南部六郎政長らの城に向かったところ、御敵滝瀬彦次郎以下の輩が道を塞ぎ防戦を致したため、同年夏頃より翌年秋冬に至り、数十度の合戦に貞光自身疵を被り、あるいは若党以下手勢百人が同じく疵を被る。輩下討ち死にの上、若干の凶徒らを討ち取りおわんぬ。
と記録されています。
この根城攻防戦は興国二年の夏から翌年秋まで一年以上もかかっています。
七戸や野辺地にも南部勢がいたので、おそらく根城に着く前上北郡辺りでも滝瀬彦次郎ほかの手ごわい抵抗を受けたのでしょう。
この知らせを聞いて政長は、急遽根城に帰ってきましたが、なにぶんにも多くの兵は、そのまま顯信の指揮下においてきています。
なので兵力ではとても敵にかないません。
津軽の大軍から攻撃を受けて、おそらく根城方は大変な苦戦をさせられたのでしょう。
その様子を「三扇昔話」は次のように伝えています。
曽我左衛門尉師助、同じく貞光根城に押し寄せ、去年より合戦数十度に及ぶ。
敵大軍なれば城兵ついに防ぎかね、すでに落城かと見え申すにつき、政長自ら城外に進み出、大勢が中に無二無三にかけ入り、切り回りたまへば、今まで気を落としたる者どもこれに励まされ、東西南北に敵を討ち取る。
政長君は数度の懸け合いに手傷をあまた負い給うといえども、ちっともひるむ気色なく猛威を振い、ついに大敵を追い払い、あまつさえ敵将師助をはじめ数人を討ち取る。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
*1:みきょうしょ、尊氏からの命令書