おおはたまちができるまで~南部のはなし~100
お世話になっております、シヨウx3です。
足利氏の内乱の続きです。
そのころの中央情勢(Ⅱ)
足利氏の内乱(2)
二、尊氏の直冬(ただふゆ)征伐(観応の騒乱)
●尊氏には義詮のほかにもう一人腹違いの子があったが、本妻の子供ではなかったので一度も対面を許していなかった。
直義は哀れに思い、この子を養子として育て、そのころは直冬と名乗って、中国西部で八ヵ国の領主となっていた。
●師直は直義の後継者を絶やしてしまおうと、部下に命じていきなりこの直冬を攻撃させた。
直冬はかろうじて四国に逃れ、後九州に渡る。
●直冬は九州で反師直派の武士を集め、大きな勢力を持つようになった。
そして中国、東国でもこれに応じて兵をあげるものが出てくる。
●正平五年十月、尊氏はこれをみて直冬討伐の決意をし、師直兄弟と共に中国に向けて出陣。
三、直義吉野の朝廷に降参する
●坊さんになった直義はこのすきを見て京都を逃げ出し、河内(大阪府中部)の石川城に入った。
●そして近畿の兵を集め、さらに吉野朝廷に降参をして南朝の援助を仰ぐ。
●正平六年一月、直義は南朝軍と共に、南北から京都に押し寄せたので、義詮は京都を逃れる。
●二月十七日、知らせを受けた尊氏は、直冬征伐をやめて引き返し、摂津(兵庫県東南部)で直義と戦うも敗れる。
●仕方なく尊氏は直義と和睦し、師直と師泰兄弟を出家させ、政治には一切かかわらないことにさせる。
●二月二十六日、京都に向かう途中で、上杉重能の子、顕能(あきよし)が親の仇、師直兄弟を殺害。
●直義は再び政治にあずかり、直冬は九州探題に任ぜられた。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1