こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く167

  

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お世話になっております、シヨウX3です。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

源さんの記録・享和三年その6です。

 

享和三年(1803)の記録・其の六

■去年は関東や大坂で大洪水が発生。大坂では住吉で大火災。

天皇の命により住吉神社*1へ奉幣使が遣わされた。 

 

煙草栽培はある時は植え、ある時は止めという状態だが、今年は数軒で栽培されている。藍草はもともと栽培する者がいなかったが、文化三年(1806)になって試す者が出てきた。

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大安寺の順道の終わり頃、まだ雪駄の音もしないうちにこの寺の犬が吠えだし、庫裏*2にやって来た。

それは、拾徳*3が掃除を始めると、必ず寒山*4がやって来たのと一緒だ。

 生きとし生けるもの、食べ物を得るのにきわめて自然な所為と言えようか。

「無情」ということについて触れよう。

木石や容器の瓢(ひさご)、蚫(あわび)の殻などを酢に入れて時間をかけて染み込ませる。

鏡に絵を書くときには、

①青竹を炭火に焙って竹の瀝(しずく)をとり、

②髪の毛を梍莢(さいかち)汁で油っ気を洗い落としてから黒焼きにし髪灰をとり、

③石亀を鉢に入れて籠に蓋をして尿の出るのをとり、

④蛙を焙り、油をとり、

以上の四種を調合して鏡に書く。

太陽に当ててこれを乾かし砥石で擦り、この粉と梅酢を混ぜて磨き、水銀でこするとはっきりと絵が描き出されるという。

または、硫黄一分粉霜砂一分宛を膠(にかわ)水で合わせ、鏡に止めて描き、乾くのを待って火に焙り、片時磨く方法もあり。

石に文字や絵を書くには、

①亀の尿と②オナモミ*5と③ワサビ汁の三品を墨に摺り込んで描くという。

描いた絵も変化するということに触れよう。

光明朱(赤色の顔料)一箋と焔硝三分を酒と混ぜ合わせ壺に入れて日当たりの良い土中にひと月ほど埋めておき、乾いたころに酒で解いて、下絵は胡紛*6で描き、その上に、今述べた朱を赤く塗り、よく乾かしてから上絵を描く。この絵に熱燗の酒を備えると、絵の中の人物の顔がほんのり赤くなり、いかにも酔っているが如くになり、酔いが醒めると、元に戻って白くなるのを面白がると…。

 

第十一集・完

 

ちょっと最後は何が言いたかったのかよくわからない記録でした。

さて次回は文化元年(1804)の記録に入ってまいりますが、

この年、源さんに一つの転機が訪れます。

(こういう表現でいいのかわかりませんが)

詳しくは次回・第十二集をお待ちください! 

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

第三集の最初から読みたい方は

源さんが行く39 - こめいがねんど

 

第四集の最初から読みたい方は

源さんが行く57 - こめいがねんど

 

第五集の最初から読みたい方は

源さんが行く72 - こめいがねんど

 

第六集の最初から読みたい方は

源さんが行く88 - こめいがねんど

 

第七集の最初から読みたい方は

源さんが行く99 - こめいがねんど

 

第八集の最初から読みたい方は

源さんが行く111 - こめいがねんど

 

第九集の最初から読みたい方は

源さんが行く129 - こめいがねんど

 

第十集の最初から読みたい方は

源さんが行く140 - こめいがねんど

*1:すみのえの神三神と神功皇后を祀る

*2:くり=寺の台所

*3:じっとく=唐代の詩僧。国清寺の豊千禅師に拾われ養われた。普賢の化身と称された

*4:かんざん=唐代の詩僧。国清寺の近くの洞窟に住み、食事係の拾徳から残飯をもらい受けていた。文殊の化身と称される

*5:熟した実を漢方で蒼耳子(そうじし)と言い発汗剤・鎮痛剤になる

*6:ごふん=白の顔料

源さんが行く166

  

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お世話になっております、シヨウX3です。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

源さんの記録・享和三年その5です。

 

享和三年(1803)の記録・其の伍

(前回の続き)

然るに、中国の後漢時代、永平年間にインドの迦葉摩沸*1竺法蘭*2が五岳*3の道士たちとが落葉の白馬寺において仏道と仙道の効と験を競った。

わが国では弘仁六年(815)八月、大和の大安寺の塔中院において最澄が止観の妙法を論じ、華厳宗、法相(ほっそう)宗、三論宗、倶舎(くしゃ)宗、成実宗、戒律宗はその矛盾を突かれて敗退した。けれども、一乗(法華経の教え)の権衡(つりあい)になぞらえて伏せおくことになったという。

弘仁十年(819)には清涼殿において、空海即心即仏の義を唱え、三輪宗の道昌、唯識(ゆいしき)宗の源仁、華厳宗の道雄、止観(天台宗)の円澄などがこの論争に加わったものの、空海の説得力ある論調に白旗を上げた。

応和三年(963)には、比叡山の慈恵と南都(興福寺)の仲算、南寺(東大寺)の法蔵と北嶺(延暦寺)の覚慶とが、止観(天台宗)と唯識法相宗)、法相宗天台宗の論争を展開した。

建武元年(1334)には、比叡山の玄慧と柴野(大徳寺)の妙超、東寺の虎聖(虎関師錬)と南禅寺の大光(国師号、夢窓磁石)と清涼殿において止観と禅、真言と禅について問答を行っている。

天正七年(1579)には、貞安(ていあん、西光寺)と日珖(にっこう、頂妙寺)が安土において浄土宗と法華宗の宗論をおこなったが、経典の理解度は当初から明らか、弁別の余地なく結果は見えていた。

 

和宗

応和三年、宮中において天台・法相の両宗の学匠が一切成仏・二乗不成仏をめぐって行った論議村上天皇は五日間十座、南都・北嶺の高僧各十人を清涼殿に招き法華会を催したが、その第二日夕座に問者であった天台の覚慶は、一切全ての者が成仏できると主張したのに対し、講師であった東大寺の法蔵が、成仏できるのは菩薩と不定(ふじょう)の一部に限定されると法相宗の立場から反論して論争となった。

 

安土宗論

天正七年、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の論争。安土問答とも称される。織田信長の命により浄土宗の僧、貞安と法華宗の日珖・日諦・日淵らの間で行われた。法華宗は敗れて処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。

 

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つづく

 

 

最初から読み直したい方は

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第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

第三集の最初から読みたい方は

源さんが行く39 - こめいがねんど

 

第四集の最初から読みたい方は

源さんが行く57 - こめいがねんど

 

第五集の最初から読みたい方は

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第六集の最初から読みたい方は

源さんが行く88 - こめいがねんど

 

第七集の最初から読みたい方は

源さんが行く99 - こめいがねんど

 

第八集の最初から読みたい方は

源さんが行く111 - こめいがねんど

 

第九集の最初から読みたい方は

源さんが行く129 - こめいがねんど

 

第十集の最初から読みたい方は

源さんが行く140 - こめいがねんど

*1:かしょう・まとう、僧の名前

*2:じくほうらん、僧の名前

*3:中国の五つの霊山

ブルエン

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お世話になっております、シヨウX3です。

 

ここ最近かなりのヘビーローテーションBlue Encount(通称/ブルエン)ばっかり聞いております。

 

きっかけは数年前に放映していた機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズを息子と一緒に見ていたときのオープニングテーマ(Survivor)だったんですが、そのときはシングルだけ借りてきて終わってました。

それから数年したら、今度は僕のヒーローアカデミアというアニメのオープニングテーマ(ポラリス)をやっているのを息子が見ていたのをたまたま一緒に見てて(あ、ブルエンだ…。)程度の反応だったんですが、何か引っかかっていました。

今年のゴールデンウィークに、たまたまYouTubeでブルエンのバッドパラドックス(ボイス110緊急指令室・主題歌)のPVに出くわしました。

ハマりました。(かっこいい。)

「何をいまさら。」と思われているファンの方やドラマを見ていた方からはつっこまれそうですが、ほとんどテレビを見ない私にとっては、2年前に出ていた曲に今年になってハマって、それからはYouTubeで漁るようにブルエンのPVを見まくりました。

 

アニメ・銀魂の主題歌になったVSDAYxDAY、アニメ・あひるの空の主題歌ハミングバード、映画・青くて痛くて脆いの主題歌ユメミグサetc…。

 

自分的にハズレのない楽曲ばかりでした。

速攻全アルバムを借りてきて、車のBGM用に落としました。

ブルエンのどこがいいとかの説明はあえてしません。

結局は人それぞれの好みになりますから。

私がいくらブルエンの魅力を力説したところで、聞いてみなきゃわからないですし、正直説明できません。感覚的に今の自分にハマったってだけです。

数か月後には全く聞かなくなっているかもしれませんし…。

興味を持たれた方は、YouTubeとかで見てみてください。

 

ちなみにウチのカミさんは藤井風君にドハマりしています。

彼は普通にイイですよね。

 

源さんが行く165

  

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源さんの記録・享和三年その4です。

 

享和三年(1803)の記録・其の四

天明五年にも来た落柿舎*1向井去来の三吞坊志月が俳諧行脚に立ち寄った。

今回は越前の雲水(修行僧)一向僧の知教と名を変えていた。

錫を飛ばして(行脚して)一峯海(一峯山正教寺?)へやって来た。

 

この日は大原問答について語ってくれた。

勝林院の顕真が問うには

「速やかに生死を離れて解脱を得ようとするには真言宗天台宗(止観)、華厳宗禅宗のいずれ早道か」

法然上人答えて言うには

「法問*2無尽*3なりといえども、解脱の速さを重んじる論なら浄土宗の教義をもって最高とすべきである。経文はたくさんあるけれど、その最も肝心なところを知りたいなら、他力阿弥陀仏の本願の力により往生することの頓狂*4をもって行うのが最も良い修業である。この門は入りやすく功徳(くどく)を積みやすい。修業しやすく意義を深めることができる。」と。

その声、その語りは、満座の人々を感動させたという。

 

吸い物は燈真(唐菜?)。鉄砲玉のように大きく黒い座禅豆*5。針金のように細い索麺(そうめん)上に泡立てた卵白が阿波行きのようにのっていた。鼠衣には描文で白鳥、羽色に飛金袈裟など。その雄弁さに座の一同、口々に喝采した。

 

大原問答

浄土宗の開祖・法然が1186年に大原の勝林院で叡山、南都の僧(明遍・証真・貞慶・智海・重源ら)と浄土念仏の教理を論議、問答して信服させたこと。法然は高僧たちの質問に対して明確に応答し、浄土の宗義、念仏の功徳を説き、弥陀本願の深い妙旨を語ったので、集まった多くの人々が信服し、それより三日三晩不断の念仏を称したと伝えられる。翌朝、重源は南無阿弥陀仏と名乗り、それ以後南無阿弥陀仏を名乗る阿号が流行した。この大原問答によって法然は一躍有名になった。

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つづく

 

 

最初から読み直したい方は

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第十集の最初から読みたい方は

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*1:らくししゃ=芭蕉一門

*2:教法についての問答

*3:むじん=尽きない

*4:とんきょう=法華経

*5:黒豆を甘く煮詰めたもの

源さんが行く164

  

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源さんの記録・享和三年その3です。

 

享和三年(1803)の記録・其の参

南部藩箱館陣営が交替。

監察は島川英左衛門、勘定台は下田恒右衛門。

 

長さ四丈(十二㍍)、幅三尺(一㍍)の旗一対を八幡宮に奉納したのは幕府御目付の藤本徳三郎である。署は東斉源長裕。

 

 ■富士山麓大石寺(たいせきじ)は日興*1が開基した十六本山のひとつである。

寿量品*2により不受不施*3を説いた。

正面に「(はね)曼荼羅」と宗祖日蓮の画像を安置し、その他の像は一切飾らなかった。

永禄年間(1558~70)には諸宗取締に触れ、寛永七年(1630)と寛文九年(1669)には「不受布施寺請(てらうけ)禁止令」が出された。

宝暦三年(1753)にも訴訟があった。

今年になり十五本山が各教義に折り合いをつけている。

 

曼荼羅

日蓮宗の本尊は南無妙法蓮華経と題目の書かれた曼荼羅

日蓮法華経十四品(ほん)に登場する如来、菩薩、明王天などを漢字、梵字で書き表した。髭(ひげ)曼荼羅ともいう。

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ハシカが流行した。蒟蒻となた豆が禁止された。手ぐそや新しい汲み水などは昔から禁じられている。 

 

菅原道真(845~903)公の九百年忌にあたり仮殿において祀る。

※現在も宮浦家社務所において学問の神様として祀られている。

 

円通寺の本堂と鐘桜、山門を再建

 

つづく

 

 

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第十集の最初から読みたい方は

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*1:にっこう=日蓮門下の六大僧のひとり

*2:じゅりょうぼん=法華経二十八品中の第十六。永遠の仏陀を説き、本門の中心をなす

*3:ふじゅふせ=法華経を信じない人からは布施を受けず、法を施さないとする教義

源さんが行く163

  

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  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

源さんの記録・享和三年その2です。

 

享和三年(1803)の記録・其の弐

■大坂の松右衛門が、箱館の入り江に島を築き港湾を整備をした。

またこの人は以前に安くて丈夫な織帆(おりほ)を開発した人物である。

寒い冬の時期、百石ぐらいニシン船にはムシロを繋ぎ合わせて用いていたが、波を避けて引き下ろすのには、この木綿の帆が利用しやすいのだそうだ。

ところで港湾整備と言えば、承安二年(1173)平清盛が和田の美崎を切り開いて兵庫に大和田の泊を築いた。

しかし今では難波の地名に残るだけである。

 

大和田の泊

平清盛日宋貿易の振興のために工事を行い宋船が入港できるようになったが、平氏の没落後まもなく荒廃した。現在の神戸港の前身。

 

 ■箱館に掘り抜き井戸の水道が整備され、箱館山の上にも家が建つようになった。

 

川のない函館に日本二番目の水道施設

 今では全く想像できませんが、昔、函館は早朝に天秤棒で水売りが商売になるほど深刻な水不足の町でした。

飲料水確保のためには河川の存在が必要不可欠ですが、当時の函館は川が全く存在せず、函館山からの湧き水とわずかな井戸に頼るしかなく、慢性的に水不足の状態でした。その函館が明治二十二年に日本で二番目に水道を敷設(ふせつ)し水不足の解消に至ります。それまでの経緯をご紹介します。

①新築箱館奉行所も水不足

 蝦夷地を直轄した江戸幕府は、享保三年(1803)に現在の元町公園付近に箱館奉行所及び役宅を新築します。

函館山山麓は岩盤が固く、つるはしなどの粗末な装備では井戸掘りに困難が伴い、一ヶ所掘るも水量不足を起こし、不自由な生活を強いられています。

 そこで奉行所役人富山元十郎があちこち探したところ、函館山に清水を発見、かけいを架けてこれを引きます。

奉行の羽太正養はその功績を不朽に伝えるために富山の泉と名づけ碑を建てて賞賛しました。

高田屋嘉兵衛と掘り抜き井戸

 文化三年(1806)、全戸数の約半分の三百五十戸焼失の大火があり、大町にあった豪商高田屋嘉兵衛の店舗も焼失します。

嘉兵衛は翌年、大坂から井戸掘り職人を呼び寄せ、また手押しポンプを各町内に寄贈します。

住民は高田屋の井戸と呼び、飲料水はもとより初期消火に必要な水の確保に多大な貢献をしました。

 

 その後、明治年間に井戸は四百ヶ所に増えるも、水不足はいっこうに解消しませんでした。

 

水不足を解消した願乗寺川

 安政六年(1859)、願乗寺(西別院の前身)の僧侶堀川乗経は、本山から多額の援助金を受け、当時函館湾内に注いでいた亀田川を中の橋から四キロの人口の川(掘割)を掘り、現在の銀座通りにあった既存の掘割に注ぎます。

飲料水および消火用水が確保されたため、川の流域に人が住み始め、町の趨勢は徐々に東部方向へと広がりを見せていきます。

この川は正式には新亀田川ですが、住民は感謝を込めて「願乗寺川」と呼びました。

 しかし、人口増加により汚水が川に流れ込み、明治十九年にコレラによる死亡者が九百人も発生します

さらに上流から流れた土砂が函館湾を浅くしたため、赤川から仮設水道を準備の上、明治二十一年に埋め立てられたのが、現在の高砂通りです。

 

 享和三年の源さんの記述は、富山の泉高田屋の井戸のどちらとも受け取られる書き方になっています。源さんがこの記録を実際に清書したのは文化四年です。おそらくその両方を意識して(知っていて)、記録していると受け止めてよいでしょう。

箱館奉行所はその後移動し、富山の泉の碑も今は残っていないそうです。

【原始謾筆風土年表・資料編】より

 

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つづく

 

 

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源さんの記録・享和三年に入っていきます。

源さんは56歳、宿老として励んでいます。

 

享和三年(1803)の記録・其の壱

「この度、箱館御奉行戸川筑前守様駕籠に乗って江戸を御出立、御通行されるにあたり、賃払いの御継立*1の際に御黒印*2は持参しなくとも、御朱印*3による重要な御沙汰ゆえ、宿々での御取り扱いは特に丁重に扱うよう、その心得のためこの廻状により伝達する。

日光街道  千住宿問屋  杢右衛門

  亥三月二十七日  午上刻

 草加より南部領  それより箱館まで宿中」

 

先詰め宿割り 給人の乗掛け馬の手配を佐野新造 若党*4が務める。

槍先払い、草履先払い、具足、鉄砲、玉箱、生建(かちゆみ)、矢箱、槍、徒士*5薙刀なぎなた)、中小姓、籠、用箪笥・茶弁当足軽、馬沓箱両掛け、両掛け合羽籠、押し*6

燈籠具足用人駕 畑谷平治・若党

両掛け竹馬、医者駕、新納考書

給人乗掛け・坂上半右衛門、近習乗り掛け、乗掛け組、徒士橋乗掛け、納戸長持、武器長持、勝手(台所)長持、幕宿札、医者、足軽、雇方乗換え船印竿具足人駕船*7、中太夫・若党、両がけ竹馬

 

三月二十七日 千住休み、越谷泊ー二十八日 粕壁、幸手二十九日 古河、小山ー四月一日 石橋、宇都宮ー二日 氏家、大田原―三日 芦野、白川ー四日 須賀川、郡山ー五日 休みなし、二本松―六日 福島、越河ー七日 白石、大河原ー八日 岩沼、国分町九日 吉岡、古川ー十日 築館、金成ー十一日 一関、水沢ー十二日 黒沢尻、花巻ー十三日 郡山、盛岡ー十四日 渋民、沼宮内十五日 小繁、一戸ー十六日 三戸、五戸ー十七日 休みなし、七戸ー十八日 休みなし、野辺地ー十九日 有戸、横浜ー二十日 中野沢、田名部ー二十一日 大畑、異国間ー二十二日 大間休み、佐井泊

※江戸から佐井まで二十五日間での移動である。

 

旅館は菊池太左衛門亭 フナハシを通行。

一昨年の旗本衆の渡海には、兵庫で建造した関船の瑞穂丸、栄通丸、各五百石形(なり)の船を用いた。

今年は浦賀で建造した関船七百石形の長春丸に代わり、瑞穂丸は南部家、栄通丸は津軽家の御用船となった。

 

 蝦夷地へイノシシの子(ウリ坊)を搬送した。

イノシシは胎内四ヶ月で生まれる。

 

 

つづく

 

 

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第十集の最初から読みたい方は

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*1:つぎたて=宿駅、宿場で人馬を乗り換えること

*2:こくいん=墨を用いて押した印。領主が公文書に用いた

*3:武将が公文書に用いた

*4:わかとう=武家奉公人の最上位

*5:かちざむらい=徒歩で供する侍

*6:隊列を組んでの行進

*7:かごぶね=美しく飾り立てた船

源さんが行く161

  

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源さんの記録・享和二年の後半の二回目です。

 

享和二年(1802)の記録・後半の弐

宝暦七年(1757)のことである。

心光寺の羚羊角*1本門寺の山蜘蛛*2に化ける狸がいた。

この二人が月想山心光寺において談笑中、総本山である紀州由良(ゆら)の興国寺の廻僧がやって来ると耳にし、脅かしてやろうと大蜘蛛に化けて待ちうけていた。

足の長さ、節から六寸*3、節から五寸、節から四寸、節から三寸と大きな蜘蛛である。

興国寺の僧が大声で「一夜の宿を頼もう」とやって来た。

僧は蜘蛛の姿に驚き腰をぬかしながら逃げる途中、尺八を持った新川八兵衛にぶつかり助け起こされた。

新川は鉄砲を持って大蜘蛛に化けた狸に立ち向かった。

こんなわけで早々に騒ぎは収まった。

新川八兵衛が瞬時に判断できたのは、孔子も郷党の編で

~五品位の菩薩も故郷に戻り…。~

豊臣秀吉は生まれ故郷の尾張中村で一人の老人にお逢いし、これらのエピソードを胸におさめて、生兵法*4による大疵*5が癒されたのだという。

そして琢磨し功を遂げたその時に故郷に帰ろうと決心した。

知人もいない上総(かずさ)に来て、金森の浪士に賓蔵院流の鎗(やり)を習う。

思い入れの強過ぎその威力に震えながらも数か月の修業をする。

その後、金森浪士で正法念流の武術の使い手として下総(しもうさ)中にその名が響き渡る人間がやって来るとのうわさを聞く。

その昔から摩利支天*6は草木も眠る丑三つ時(真夜中)にものを言うと伝えられるが、

「木にも草にも油断するな」との声。

摩利支天のその声を聞いた人間は大友宗麟*7以来である。

天を仰いで地にひれ伏して、五更もまたぎ(夜も明けぬうちに)、深い谷を飛び越え故郷を出て四年目に戻ったという。

京都にいた頃の秀吉は、稽古と称して自ら露地の水石(庭園)を築いていた。

先ずは大徳寺の庭園、次には天竜寺の庭園と真似、こちらは金閣、あちらは銀閣寺と…、おのが樹木一年経ずに七度も植え替え、草木は大方枯れてしまったという。

動かぬものではあるが生き物である。

心有るべき庭造りもここまでしては、非情の費(ついえ)としか言いようがない。

一度死にかかったものを無情とせず甦らせた例がある。

義光山賓國寺の向かい左の家屋敷は、宝暦(1751~64)の初めから寛政(1789~1801)の初めまでは四十年間、徳右衛門から豊右衛門に変わり、正津川屋から善兵衛と変わったが、この人、生まれは秋田と聞いているが鋳掛*8を商売として諸国を渡り歩いていたらしい。

ここに仮住まい仕立てた時、癪*9の病に苦しみ、田中左臼の按摩治療で助かった。

それからはこの屋敷の主におさまり、無性の家が古びてつぶれかかっていたが、有情の手によって補修された。しかし、二、三年経つとこの地も飽きて、またもや他の地に移り住もうかと思っていたところ、すでに隠居生活に入っていた賓國寺の十世に諭された。

「晴れた日には晴れのチヤシ(コールタール)を塗り、雨降りには雨降り用のチヤシを塗って家を修理するがよい。比叡山延暦寺の西塔で修業していた武蔵坊弁慶は斉藤別当の娘婿となり、蝸牛の家(狭い家)もそのうちに綿蛮たる黄鳥(ウグイスの鳴く)丘阿(岡)となった」と。

こうして鋳掛屋の善兵衛は今年からこの大畑の良き一住民と数えられるようになった。

 

無性(むしょう)仏語、無仏性、仏となる素質のないもの

有情(うじょう)仏語、生きとし生けるもの、衆生(しゅじょう)

有性(うしょう)仏語、有仏性、仏となる素質のあるもの

無情(むじょう)こころのないもの、木や石などにいう。非情

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つづく

 

 

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*1:九世紀の音柳和尚か

*2:六世の日清和尚か

*3:二十㌢弱

*4:なまびょうほう=少しばかりの兵法を知ってはいるが、未熟なこと

*5:おおきず=大失敗すること

*6:まりしてん=武士の守り神

*7:そうりん、1530~87

*8:いかけ=鍋釡の修理屋

*9:しゃく=胸部、腹部におこる激痛

源さんが行く160

  

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お世話になっております、シヨウX3です。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

源さんの記録は享和二年の後半からになります。

 

享和二年(1802)の記録・後半の壱

■ロシア人の男十人、女三人、それに五歳と三歳の子供。総勢十六人が去年からウルップ島に渡来。

山の崖に穴倉住居を作り、入り口には鉄の扉をつけて暮らしていた。

エトロフ勤務の幕臣富山元十郎*1深山宇平太ら二十人がこの辺りを見回り、その有様を見届けた。

このとき、大山(おおやま)酒二樽を彼らに贈り一夜だけ表に陣を張って戻った。

その夜、酒宴を開いたのであろうか、夜中までにぎやかに歌う声が聞こえていた。

蝦夷人の話ではその後、リーダーの解志戸府志(ワシリー)が病死し、残りの人々は帰国したという。

 

大山酒

お酒をたしなむ方ならご存じかも知れない。

大山は山形県鶴岡市郊外の地名。

「東北の灘(なだ)」と称されるほどの酒造りで栄華をほこった町である。

江戸時代には幕府の天領として保護を受け、朝日山山系から流れてくる伏流水と庄内米を原料にうまい酒の生産地として全国に名が知られた。

文化元年(1804)には酒屋三十六軒。現在も酒蔵四軒が高い品質の酒造りの歴史を守り続ける。

 

天長地久大日本属島の碑

 一八〇一年六月、幕臣富山元十郎らがウルップ島に<天長地久大日本属島>の標柱を立てました。

ウルップ島はクナシリ、エトロフに続く島で、この頃はまだロシアと日本の勢力が接近する地点でした。

幕府の調査の命を受けて、富山元十郎と深山宇平太らがウルップ島ヨカイワタラに上陸し、丘の上に日本の領土を示すこの九文字を刻んだ標柱を立てたのでした。

そして、このとき、トウボに居住するロシア人のワシリーらに対して富山元十郎は独学で覚えたロシア語で退去を命じたといいます。

しかし残念ながら相手にはあまり通じなかったようです。

ロシア人たちは、鶴岡「大山産」の日本酒を二樽も贈られて陽気にぎやかに歌い騒いでいました。

 これより三年前には近藤重蔵最上徳内らがエトロフ島に<大日本恵登呂府>の標柱を立てました。

これには領土を意味する言葉は含まれていません。

富山元十郎らが立てた標柱には幕府の蝦夷地経営の積極化を見ることができます。

【原始謾筆風土年表・資料編】より

 

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つづく

 

 

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*1:もとじゅうろう