源さんが行く165
お世話になっております、シヨウX3です。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの記録・享和三年その4です。
享和三年(1803)の記録・其の四
天明五年にも来た落柿舎*1向井去来派の三吞坊志月が俳諧行脚に立ち寄った。
今回は越前の雲水(修行僧)一向僧の知教と名を変えていた。
錫を飛ばして(行脚して)一峯海(一峯山正教寺?)へやって来た。
この日は大原問答について語ってくれた。
勝林院の顕真が問うには
「速やかに生死を離れて解脱を得ようとするには真言宗、天台宗(止観)、華厳宗、禅宗のいずれ早道か」
法然上人答えて言うには
「法問*2無尽*3なりといえども、解脱の速さを重んじる論なら浄土宗の教義をもって最高とすべきである。経文はたくさんあるけれど、その最も肝心なところを知りたいなら、他力阿弥陀仏の本願の力により往生することの頓狂*4をもって行うのが最も良い修業である。この門は入りやすく功徳(くどく)を積みやすい。修業しやすく意義を深めることができる。」と。
その声、その語りは、満座の人々を感動させたという。
吸い物は燈真(唐菜?)。鉄砲玉のように大きく黒い座禅豆*5。針金のように細い索麺(そうめん)上に泡立てた卵白が阿波行きのようにのっていた。鼠衣には描文で白鳥、羽色に飛金袈裟など。その雄弁さに座の一同、口々に喝采した。
大原問答
浄土宗の開祖・法然が1186年に大原の勝林院で叡山、南都の僧(明遍・証真・貞慶・智海・重源ら)と浄土念仏の教理を論議、問答して信服させたこと。法然は高僧たちの質問に対して明確に応答し、浄土の宗義、念仏の功徳を説き、弥陀本願の深い妙旨を語ったので、集まった多くの人々が信服し、それより三日三晩不断の念仏を称したと伝えられる。翌朝、重源は南無阿弥陀仏と名乗り、それ以後南無阿弥陀仏を名乗る阿号が流行した。この大原問答によって法然は一躍有名になった。
つづく
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