源さんが行く160
お世話になっております、シヨウX3です。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの記録は享和二年の後半からになります。
享和二年(1802)の記録・後半の壱
■ロシア人の男十人、女三人、それに五歳と三歳の子供。総勢十六人が去年からウルップ島に渡来。
山の崖に穴倉住居を作り、入り口には鉄の扉をつけて暮らしていた。
エトロフ勤務の幕臣富山元十郎*1と深山宇平太ら二十人がこの辺りを見回り、その有様を見届けた。
このとき、大山(おおやま)酒二樽を彼らに贈り一夜だけ表に陣を張って戻った。
その夜、酒宴を開いたのであろうか、夜中までにぎやかに歌う声が聞こえていた。
蝦夷人の話ではその後、リーダーの解志戸府志(ワシリー)が病死し、残りの人々は帰国したという。
大山酒
お酒をたしなむ方ならご存じかも知れない。
「東北の灘(なだ)」と称されるほどの酒造りで栄華をほこった町である。
江戸時代には幕府の天領として保護を受け、朝日山山系から流れてくる伏流水と庄内米を原料にうまい酒の生産地として全国に名が知られた。
文化元年(1804)には酒屋三十六軒。現在も酒蔵四軒が高い品質の酒造りの歴史を守り続ける。
天長地久大日本属島の碑
一八〇一年六月、幕臣の富山元十郎らがウルップ島に<天長地久大日本属島>の標柱を立てました。
ウルップ島はクナシリ、エトロフに続く島で、この頃はまだロシアと日本の勢力が接近する地点でした。
幕府の調査の命を受けて、富山元十郎と深山宇平太らがウルップ島ヨカイワタラに上陸し、丘の上に日本の領土を示すこの九文字を刻んだ標柱を立てたのでした。
そして、このとき、トウボに居住するロシア人のワシリーらに対して富山元十郎は独学で覚えたロシア語で退去を命じたといいます。
しかし残念ながら相手にはあまり通じなかったようです。
ロシア人たちは、鶴岡「大山産」の日本酒を二樽も贈られて陽気にぎやかに歌い騒いでいました。
これより三年前には近藤重蔵、最上徳内らがエトロフ島に<大日本恵登呂府>の標柱を立てました。
これには領土を意味する言葉は含まれていません。
富山元十郎らが立てた標柱には幕府の蝦夷地経営の積極化を見ることができます。
【原始謾筆風土年表・資料編】より
つづく
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*1:もとじゅうろう