こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く39

 

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

寛政二年後半から、第三集は始まります。

 

源さん、四十三歳 宿老の業務に励んでおります。

 

寛政二年(1790年)後期の記録・その壱  

五尺五寸以上の壮年(働き盛りの大人)の選抜(源さんはミヌクとルビ)を行った。

※源さんの記録の中には度々「見抜く」という言葉が出てきます。

源さんの1781年の記録には、

五尺五寸以上 壮年点検にて 関根より乱髪櫛右衛門と名せる

と書かれています。

これについて、原始謾筆風土年表・1777~1781年の記録の中の資料編から紹介します。

 

南部力士と見抜き制度

「見抜き」とは、スカウト、選抜の意味に使われています。

また「五尺五寸以上の壮年点検」とは、制度として存在していたことも知られています。(富岡一郎氏:談)

 

 南部藩は、世に知られた相撲どころでした。

歴代藩主は相撲に関心が深く、特に第四代・行信(ゆきのぶ)公、第十代・利敬(としたか)公の相撲好きは語り伝えられています。

藩では八幡坂の上の南角に相撲場、角屋敷を作り、力士を召し抱えて養成。

召し抱えられた力士は領内出身者だけに限らす、諸国からスカウトして南部力士としていました。

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囲碁初段という八戸の関清吉がしばらく滞在。享和二年(1802年)にも来ている。

 

盛岡の鍵屋宗兵衛が濁酒*1と麹室*2を大畑百貫文、田名部百五貫文で五か年請け負った。

 

江戸の講談師・本多源之進がこんな面白い話をした。

「朝三暮四」*3という言葉がある。

同じ結果になることに気づかないサルたちをだました話から生まれた言葉だが、今ではサルの綱渡りなど公然と動物をだまし、見世物にしている。

浜の子供たちはトビウオが海面を飛ぶことやオシドリが水底に潜ることを体験的に知っているから、口先だけでは騙されないと、鵜飼いの鵜が泳ぐ様など身振り、手振りで語ったのだ。

そのあと講談となり、この前まで大老だった田沼意次伝を熱く語った。

幕府の内情が手に取るように伝わって、満座の人々は拍手喝采だった。

 

源さんが行く40 - こめいがねんど

つづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

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*1:どぶろく

*2:こうじむろ=麹をつくるための温室

*3:春秋時代、中国・宋の狙公(そこう)が、手飼いのサルにトチの実を与えるのに、朝に三つ、暮に四つとしたところ、サルたちは少ないと怒り、朝に四つ、暮に三つとしたら大いに喜んだという故事。目の前の違いにばかりこだわって、同じ結果になることに気づかないこと。