こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村の歴史や文化、たまに趣味のねんど作品を紹介する雑記ブログ

源さんが行く138

  

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

源さんの記録、寛政十二年10になります。 

寛政十二年(1800)の記録・其の十

下風呂ではえ縄の徳利形のビンにタコが入り、針に引っかかって釣り上げられた。

出口の狭い岩穴の中で貝が成長し出られなくなったようなものだろう。

大坂の筋違橋の橋脚に筋穴(ふしあな)があった。

その割れ目の中で大きく育った三十数㌢の鯉が虚(うろ)になって朽ちた部分から出てきたという。

雷が落ちて木立の割れ目に挟まった雷獣を、度胸のあるヤツが助けて放してやったという話もあるが…。

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去年、植木鉢に赤蓼*1が一株、苔にまじって生えていた。

二年目の今年は青蓼*2と競うように繁茂した。

  

■昔は、蝦夷地の東端は厚岸の一ツ眼までと言われていた。

元禄十五年(1702)には霧多布から知床までも指すようになった。

そこからさらに斜里を経て西蝦夷地の果てである宗谷までも蝦夷地となった。

宝暦十三年(1763)、厚岸場所は霧多布と知床までだった。

明和元年(1764)霧多布のノツカマフ、さらにクナシリ島を開拓した。

クナシリアイヌはエトロフ島までも交易に出向いていた。

寛政二年(1790)、ノツカマフは根室場所とされ、ここからエトロフ島に直行するようになった。

今年に入り、東蝦夷地での交易は大いに開けた。

斜里は宗谷アイヌたちとの交易に役立っていたが、天明(1781~89)の頃から独立した請負場所となった。

 

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 へつづく

 

 

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*1:べにたで=芽は刺身のツマ

*2:あおたで=葉は、タデ酢としてアユ料理に、炒って汁の実に