源さんが行く124
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
今回より数回にわたって、原始謾筆風土年表・意訳編から、佐藤ミドリ先生がまとめられた資料をもとに蝦夷地探検家である最上徳内にスポットを当てて進めていきたいと思います。
最上徳内のはなし1
実家は農家で、徳内は長男でしたが、学問を志し、二十七歳のとき、江戸に渡り本多利明の音羽塾に入門し、天文学や測量術などを学びました。
天明四年(1784)十月、田沼意次のもとに提出された蝦夷地見分計画書に青島俊蔵の名がありました。
本多利明は随行を希望し、かねて親交のあった青島俊蔵にコンタクトをとります。
利明は足軽として随行を許可されると、病気という理由で急遽、弟子の徳内を代理にたてました。
徳内は「棹取り(さおとり)」として蝦夷地探検に随行を許可されます。
実は病気は口実で、利明による徳内の蝦夷地送り込み作戦でした。
「棹取り」とは、測量作業の間の綱引きや道具持ちの人夫の事です。
天明五年四月二十九日、徳内は山口鉄五郎、青島俊蔵の率いる東蝦夷地見分隊の一員として松前を出発、釧路・厚岸・霧多布を経て根室に到着しました。
時すでに七月、一行はすでに疲労困憊していました。
この見分隊はクナシリ・エトロフ・ウルップ、さらにその先までも探検の予定でしたが、実際に海を渡ったのは大石逸平(幕臣)と徳内だけでした。
ガイド兼人夫として厚岸の乙名(おとな)のイトコイ以下アイヌ数名も同行しました。
ともかくも、逸平と徳内はクナシリ島の西南端トマリに着きました。
しかし、すでに八月半ばを過ぎていました。さらに二人は先の島々へ渡ろうと舟を出しますが、クナシリ島の北端アトイヤにたどり着くのが精一杯でした。
現地に慣れているイトコイすら出航を渋ったといいますから、島渡りにはすでに時機を逸していました。
へつづく
最初から読み直したい方は
第二集の最初から読みたい方は
第三集の最初から読みたい方は
第四集の最初から読みたい方は
第五集の最初から読みたい方は
第六集の最初から読みたい方は
第七集の最初から読みたい方は