源さんが行く127
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
最上徳内のはなし4
徳内にとっては七度目の渡海でした。
数回の東蝦夷地探検の陸行で、日高山脈越えの道路の重要性を身にしみて感じていた徳内は、せめて馬が通行できるほどの道路をと念を入れていました。
六月八日、見分隊総裁の松平信濃守忠明が工事現場を通りかかります。
状況報告した徳内に忠明は
「念を入れたるは宜(よろ)しからぬ」と叱責。
徳内は唖然とします。
ここが通れないと東蝦夷地へは船で行くしかなくなり、海が荒れた場合は全くほかに交通手段がなくなります。
ひるまず反論した徳内に信濃守は「取り放し」すなわち免職を言い渡します。
徳内は辞表を提出して離任、十月半ば江戸に帰ったといいます。
その間も蝦夷地を観察していたというからどういう心境だったのでしょう。
徳内は工事完了した新道を見ながら帰ろうと考えていましたが、工事に従事していたアイヌが「新道を通っては格別難儀だ」というので古道を通って帰ったそうです。
徳内を外して行われた新道工事は莫大な予算を費やし、人も通らぬものとなってしまったのでした。
上司への反論は、その場でお手打ち(伐り殺す)でも文句を言えなかった時代。
しかし、徳内は江戸に帰ってから十二冊に渡る意見書を提出しました。
それは受理されたうえ、蝦夷地で提出した辞表も返されたというのですから、徳内の実質勝利でした。
とはいえ、寛政十二年(1800)から文化元年(1804)まで徳内は蝦夷地御用から遠ざけられてしまいました。
徳内の蝦夷地での働きぶりを知っている遠山金四郎景晋*1から指名されたのでした。
山形県村上市にある最上徳内記念館から、あるエピソードが発信されています。
徳内の実家は農業の傍らタバコ栽培を行っていました。
青年期には隣町に奉公に出て、仙台・南部・津軽までも行商に出かけていました。
ある日父親が徳内に向かって
「男子たるものは弱冠(じゃっかん)にして生涯のこころざしを立つべきものである。
汝(おまえ)はどのような心構えがあるか?」
と聞いたところ
「蝦夷一円、本朝開闢(かいびゃく)以来、人論の教導なしと聞いているが、願わくば一度かの地に入り、かの土人*2に本朝農民の如くに耕作の諸事を教え、蝦夷の国を上国*3の風に習わしたい」
と答えたそうです。
へつづく
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