源さんが行く14
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「がんじょう」と言うのは「丈夫」という言葉の方言かと思っていたら、
甲斐*1の辺りでも言うらしい。
「まんざら」と言うのは「あながち」という言葉の方言かと思っていたら、
今年、盛岡から来た客の一人が、この両方とも使っているのを聞いたから、
昔からの言葉なのか。
この地方だけの言葉ではなさそうだ。
かまえてあじゃら!(※源さんのジョーク)
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
天明七年(1787年)の記録・其の壱
村林源助 40歳・宿老
■徳川十一代・源・家斉(いえなり)大将軍、宣下*3
徳川家斉の将軍在職期間は1787~1837年の50年にわたります。
将軍になってからは老中・田沼意次を排し、白河城主・松平定信を老中首座に抜擢して、寛政の改革を行いました。
いわゆる文化文政時代を出現。
側室四十人、子女五十五人、大奥の豪奢は最高潮に達しました。
ワイロが横行し、幕政は腐敗、敗政は窮乏化しました。【シャープ電子辞典】
弱冠十五歳の徳川家斉が朝廷から征夷大将軍の宣下をうけ、第十一代将軍に就任。
家斉は御三卿の一つ、一橋治済(はるさだ)の長男。
1781年、世継ぎのなかった第十代家治の養子となっています。
前年の田沼意次失脚後も、大老の井伊直幸(なおひで)、老中の松平康福(やすよし)、水野忠友ら田沼派がなお幕閣内にありました。
徳川御三家の一橋家ほか「反田沼派」の譜代大名等は、齢三十ながら血筋資質と申し分ない白川藩主を老中、さらには将軍補佐役にしようと画策していました。
反田沼派にとっては、この家斉の将軍就任が追い風となってくれることが期待されました。
家斉はこののち1837年まで最長の五十年間在位。1827年には最高位官の太政大臣に進み、将軍職を退いた後も大御所として実権を握り、なお君臨します。
六月十九日、松平定信が、御三家と将軍家斉の実父の一橋治済の推薦を受け、三十歳で老中首座に就任。
五月の江戸での「打ち壊し」*5の責任をとって、田沼派の将軍側近の御側御用取次・横田準松(のりとし)らが解任され、松平の老中就任が実現。
世間でも、この「打ち壊し」がなければ側近政治も改まらなかっただろうと噂し、
「文武両道左衛門源世直」(みなもとのよなおし)
と松平定信を称し、大いに期待したそうです。
【日本全史】
以上、天明七年最初の記録になります。
源さんの記録にしたら、たった2,3行の記述になりますが、
(出だしの方言エピソードは省きます)
意訳の佐藤ミドリ先生に倣って、政治の大変革を詳しく載せました。
よく参考にさせてもらっている逆説の日本史の井沢元彦さんなどは、
世の中は「松平=名君」、「田沼=悪」というイメージをもっているが、実は逆である。
といろいろな雑誌や著書で言っていますが、
それは歴史のその先の動きがわかったうえでの結果論からなので、何とも言えません。
僕はそれよりも
リアルタイムで生きていた源さんが、
このとき、どんな期待を持ちながら、この変革を思っていたのかが気になります。
大畑はこの変革によりどんな影響を受けることになるのでしょうか。
次回につづきます。
第一集から読み直したい方は