こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く15

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明七年(1787年)の記録・其の弐

河源(かわかみ)堰が塞がった。

邪魔な木材を取り除く作業で、犠牲者が出て、日数もかなり費やすことになった。

そこで沢田平作が考え出したのが、川をせき止めて、一気にこれを破り流すという方法であった。

水は勢いよく流れ出し、滝の中段や滝壺にひっかかり、ふさいでいた材木を押し流して、さらにそれらの材木の力によって堰をふさいでいる材木も一気に流すというやり方だ。

 

安永末から寛政の初めにかけて十四、五年間に他国から往来した人たちも含めて、大畑で医術に関わっていた人間は槙宗設にはじまり山屋了乙まで25人もいたとは驚き!

 

江戸の材木商、伊勢屋伊兵衛の支配人、山田理兵衛は、三、四年前から大畑に来ている。

その代理人の金子孫兵衛は将棋初段。

 

箱館の大夫*1松前監物が、岡本長助と名を偽って、佐井から船で江戸、大坂方面に渡航

 

瘟液*2が流行。

崇神(すじん)天皇の時代、この病気が流行し、その半数が死んだ。

 

雲水(旅の僧)の弄水(ろうすい)という者が、正教寺で行った正信偈*3の説法は、すばらしいものだった。

 

江戸の竹本枝太夫が来た。

 

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鶴岡山形県善宝寺の僧を招き、大畑川の河口の水深をもっと深くしようと船を沖に漕ぎ出し、海の上で祈祷を行った。

結果なんと水かさが増し、川水の流れがよくなった。

周辺の山々の木々の成長、繁茂と大いに関連して水かさが増したということだろうか。

 

  

 今回はここまでです。

 前回、政府のことだけだったので、今回はズラーっと大畑のエピソードを並べてみましたが、天災に関してのエピソードが多いように思います。

次回も天災エピソードがつづきます。

 

源さんが行く16 - こめいがねんど

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

*1:たいふ=家老

*2:おんえき=一時的にはやる伝染病

*3:しょうしんげ=親鸞の「教行信証」の行巻末尾にある七言百二十句の偈文。弥陀・釈尊・三国七祖の教えた念仏を正信すべき事を述べる。浄土真宗で朝夕の勤行に和讃とともに読誦する