こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く12

 

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明六年(1786年)の記録・其の弐

天明六年五月、松前の江良町から茂草村の沖に数枚の帆をかけた三千石ほどの黒船(大型外国船)現れる。

同じ頃、さらに北の須築(すずき)海岸で、妻子と三人で漁をしていた蝦夷人の舟がこれに出会った。

異国船は、蝦夷人を手招きして、船に乗せ、一壺の酒と、餅二切れを与えた。

蝦夷人は採ったばかりのアワビをお返しに与えて帰ってきた。

蝦夷人は酒壺と餅を松前にいる長崎商人に見せた。

酒は阿弥牟(アメン)、餅は巴(パン)、壺は硝石(フラスコ)というのだとか。

その後、その船は宗谷でもその土地の蝦夷に餅と酒を与えていったということだ。

おそらく松前海岸の地形の偵察に来たものだろう。

 

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■江戸老中・田沼意次勘定奉行松本秀持桑原盛員らの命により、

去年から松前に下向している

佐藤玄六郎信行皆川沖右衛門秀道が、東蝦夷地のウルップ島へ渡航した。

この島で、安永の頃(1772~81年)から時折、エトロフ島に来ているロシア系アイヌの石横(イジュヨ)という者が、蝦夷人に話したことによると、

カムチャッカはロシア領の先端の岬だという。

そこへは、エトロフ島から十九里(70余㌔)でウルップ島、

そこから十一里(40㌔)でチリホイ島、

九里(30余㌔)で礼文チリホイ島、

さらに十里(36㌔)でマカンルル島、

二十里(75㌔弱)でシムシル島、

七里(20㌔)でウシシリ島、

七里でラショワ島、

七里で藻島(現マツワ島)、

五里でライコケ島、

十九里でシャスコタン島、

三里でカムチャツカの岬に至るという。

 

 前年江戸を出発した幕府の蝦夷地調査隊のうち、最上徳内(32歳)がクナシリ島、エトロフ島、ウルップ島を、大石逸平がカラフトをそれぞれ調査しました。

幕府による蝦夷地調査は、老中の田沼意次が工藤平助の意見を入れたもので、二年前の十月に派遣が決定しました。

 前年春、ロシア人の南下状況と蝦夷地の産物・資源調査を目的に、山口鉄五郎ら幕府普請役五人と下役数名の 蝦夷地調査隊が、八百石積みの新造船「神通丸」と「五社丸」に分乗して江戸を発ちました。

東西二手に分かれた調査は難航し、それぞれ蝦夷地に越冬、装備の不備から五人が死亡しました。

 この年の重点調査地域の一つ、千島方面には、一般の乗組員として参加した最上徳内が抜擢されて担当、エトロフ島でロシア人と接触し、ウルップ島まで踏査しました。

これによってロシアに関する知識を得るとともに、キリスト教が千島に普及している事実も判明。

一方、カラフト方面を担当した下役の大石逸平はクシュンナイまで達し、カラフトの全容と、アムール川下流域に住む山靼人との交易状況を明らかにしました。

 しかし、八月の田沼意次の失脚と共に蝦夷地の調査及び開拓計画は中止となります。

「日本全史・1786年の項より」

 

次回

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へつづく

 

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