こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く26

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

ロシア人渡来に関する

飛騨屋のクナシリ場所支配人・喜多右衛門

キイタップ支配人・庄次郎の二人が飛騨屋に報告した記録の第六回です。

 

ロシア人渡来報告書・其の参

 1744年にロシア国に漂着した佐井の多賀丸の乗組員で

イルクーツクに在住していた勝右衛門(佐井村が、

かの国の役人となり妻をめとり、一子をもうけた。

この子は才気があり、国王の覚えもめでたくヘイタラレオンセイチヤと名を賜った。

  

 天明三年(1783)この子が十七歳となり、帝の命を受けて水主・従僕七十人ばかりを預かり、大船を仕立ててゴロヲタラハン、エリスコイの湊を出帆した。

これは、南方の島に開業するためである。

 

 天明四年カラフトに至り、この島の土人と争論に及び、戦闘となり、船中の者はことごとく討死した。

そしてこの大船は、ロシア人の死骸ひとつを載せて漂流、ウルップ島に至った。(源さんが行く05 - こめいがねんど

 

 この時、エトロフの長夷たちは渡海中で、長夷ハッパは僕従(ウタシ)を大勢連れて漁猟のためウルップ島に渡っていた。

そして、島に漂着したこの大船を発見、

クナシリ島、エトロフ島、アッケシのアイヌたちとも相談して、

船の中の諸品、金銀、衣帛(きぬ)、武器などを残らずぶんどり山分けし、

船は直ちに放火して焼き捨てた。

 

 これが、へイタラレオンセイチヤが国王から預かった船だったのである。

 

 沖合から同じくロシアの大船とみられる船がウルップ島に向かってきた。

これを見てこの件を仕組んだ長夷のハッパは慌てた。

僕従百人余りと九艘の舟に乗り急いで逃げ帰ろうとしたところを、

大時化(しけ)にあい荒波にのまれ、全員海の藻屑となってしまった。

この時ウルップに来た異国船は、実は毎年ここに漁猟に来ているロシア船であった。

ウルップに残っていたアイヌたちは恐れおののきながらも、積荷をぶんどりあったことは内緒にし、

この事件の罪をハッパ一人に負いかぶせ、放火の件だけをロシア人に告げた。

ロシア人どもは大いに憤慨したが、ほどなくハッパたちの溺死がウルップにも伝わり、事はおさまった。

 

しかし「この事件はハッパ一人の仕業ではなく、ウルップ島にいたアイヌみんなが絡んでいる」とイジュヨは主張するのである。

 

 

イジュヨとサスノスコイが最上徳内に訴えるには、

「エトロフ島が日本領土であるとするなら、

なぜこの悪行を吟味仕置きしないのか。

なぜ打ち捨てるのか。

そういうことであれば、ここは日本の領土とは言えない。

ロシアと日本の入り会いの場所というべきである。

したがって、このことは相互に政道で話し合う問題

と主張する。

 

 最上徳内は返答に困り、

「何を申すにも本国より遠い離島なので」

と差し障りのない返答をしておいたと、これは最上徳内自身から直接うかがったこと。

 

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源さんが行く27 - こめいがねんど

 

へ つづく

 

 

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