源さんが行く05
下北半島食べる通信「大畑の海峡サーモン」(2016夏 バックナンバー)【電子書籍】[ 下北半島食べる通信編集部 ] 価格:500円 |
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
天明三年(1783年)の記録・其の参
この天明の大飢饉の時に大畑の商人
武川久次郎、楠原彦兵衛、堺紋兵衛、佐々木半兵衛、菊池新右衛門、堺伊兵衛、堺忠兵衛などで組合を作り
売り出しの米の量を定め、
助成金を捻出し、
玄米八合を百文とし、
幼児を除く人数を確認して、
一人当たり十二文ずつ助成した。
一軒当たりの人数を木札に記し、毎日、木札と引き替えに、11月から2月まで一合ずつ売り渡した。
木野部、赤川、寺門前に対しても同じように行った。
また、小目名15俵、二枚橋6俵、釣屋浜2俵、関根浜6俵、正津川5俵、関根5俵、烏沢・川代・出戸に4俵か2俵まとめて売り出した。
そうこうしているうちに、12月から1月にかけて餓死者が出始めた。
よその村々、よその国々では飢えた人々の死骸が累々とあふれ、それを飛び越えて歩くほどひどいものだったと聞く。
あるところでは、牛馬はもちろんのこと、人肉も食べたという。
欽明天皇の時代の564年には、飢餓の時、人肉を食べたという記録を見たことがある。
永正の頃(1504~21年)にも大飢饉があった。
中国では、初元1年4月、災害の起きる兆しと信じられている瓜のような妖星が現れ、秋になって人々は互いに殺し合い食べたと書いたものもある。
南アメリカのマルケサス諸島、あるいはアフリカの亜比心域(アヒシニィ?)という国でも人肉を食うと伝えられているのは単なるウワサと思っていたが…。
大畑の商人たちのこうした取り組みは、お上が命じたものではないが、徳政そのものと言えよう。(源さん談)
ウルップ島へたくさんの荷物を積んだまま、人の乗っていないロシア船が漂着。
翌年にも刃物で傷つけられた死骸と生首ひとつ、貨物も積まれたロシア船が漂着した。
これらを襲ったのは蝦夷人だと言われている。
以上が天明三年の記録になります。
大畑の商人は偉い人ばっかりですね。
彼らのような人たちがいなかったら、いったい大畑はどうなっていたのでしょうか。
神様・仏様・商人様です。
さて次回は、天明四年の記録
につづきます。