こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く01

 どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 今回はむつ市大畑町の歴史が詰まった原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)シリーズの第1回です。

 

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 先ずは原始謾筆風土年表をもう一度おさらいしたいと思います。

 原始謾筆風土年表は江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

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源さんイメージ画

今回はその第1回ということで、カズじじからもらった翻訳テキストの一冊目、天明二年からはじめます。

 

天明二年の記録 ~その壱~

 ※原始謾筆風土年表 第24分冊-14巻

1782年 村林源助(35歳)宿老*1

幕府将軍 徳川家治(いえはる)

 

松前の尻内(知内)で千軒嶽(現/大千軒岳:標高1072m)から黒雲と炎が発生。

番神堂(仏教寺院)の堂を燃やし、焼け残りが貴古内(木古内)の里に落ち、草刈り作業参加していた人々の中には逃げ遅れて大やけど、即死した人もいたという。

 そういえば建長二年(1250)一月十三日、大和の郡上郡にも「炎が降った」と記録されているが、こういうことだったのか。五世紀末、武烈天皇の時代にも、炎が空からおり、人々が穴倉生活に追い込まれたという記録が残っている。

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〇京都の小川民部仲之は歌学者であり、書家である。

この年から寛政七年までに四度大畑を訪れて、和歌や書の手ほどきをした。彼のおかげで日本語の助詞・助動詞の用法(てにをは)や入木道(じゅぼくどう=書道)、三神秘(草書、行書、楷書を指す?)がもたらされた。

 

〇歌舞伎役者の市川小団治大谷八重蔵が来た。

 

〇どこから来たのか、金堀定右衛門と名乗る数人組がやってきた。

飯場の白倉で金銀の採掘願を大畑の町役にもとめてきたが「代官所からの命令がなければ許可できない」と断った。

おそらくこの連中なのだろう、目名の里で掘り出した砂金を売り渡して、翌日には一割ほどのもうけを加えて買い入れるというやり方を七、八回繰り返し人々をだまし続け、近郷の人々まで群がるようになり、砂金の値段が百倍にもなったころ真夜中に姿を消した。

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金堀定右衛門一味の図

 

まずはここまで。大畑の町は当時かなり栄えていたのだろうか?

歌舞伎役者は来るし、歌学者なる人まで来ている。

今で言う地方巡業とか講演会みたいなものだろうか。そう言えば大畑町は北前船*2の寄港地だったとカズじじから聞いたことがある。だから京都からでも平気でこれたのだろうか。さすがに歩いて京都からは来ないだろう。

 

天明二年の記録~その弐~

源さんが行く02 - こめいがねんど

へつづく

*1:高官

*2:航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のこと。江戸時代から明治時代、日本海海運で活躍。