こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く13

 

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明六年(1786年)の記録・其の参

 天明四年、松本勘定奉行は工藤平助を召還して、蝦夷地事情を聴取する一方で、

蝦夷地通の勘定組頭の土山宗治郎にも調査させます。

土山レポートは五月に提出されました。

直ちに松本は現地の松前藩に、さらに六月になって藩士・横井関右衛門、下国舎人(しものくにとねり・人名)を呼び出して調査を命じたものの、いずれも赤蝦夷についてはあいまいな答えしか返ってきませんでした。

松本は意を決して、蝦夷地の金銀開発、ロシア交易のため、調査員を派遣したい意見書を老中に提出します。

調査隊原案を決定したのは十月でした。

八百石積の調査船を伊勢大湊(現・三重県伊勢市五十鈴川河口)で造らせます。

神通丸、五社丸の二艘が品川沖に姿を見せたのは、翌五年四月でした。

調査探検隊は、勘定所から選ばれ、松前藩からも応援されます。

編成は

 

遊軍班

普請役・佐藤玄六郎

普請役・皆川沖右衛門

下役・里見平蔵

下役・鈴木清七

 

蝦夷

普請役・山口鉄五郎

普請役・青島俊蔵

下役・大塚小市郎

下役・大石逸平

案内の松前藩士・浅利幸兵衛、近藤吉左衛門

通訳三人、医師一人

 

西蝦夷

普請役・庵原弥六

下役・引佐新兵衛

案内の松前藩士・柴田文蔵

通訳二人、医師一人

 

これに竿取、小者の雑役がつき、

青島俊蔵には最上徳内が竿取として従っていました。

船方は幕府廻船御用達の苫屋久兵衛が当たって造船を担当、

航海には苫屋の元手代・堺屋市左衛門が選ばれました。

そして、相談役に松前藩から追放中の湊源左衛門があずかっています。

湊源左衛門は松前藩勘定奉行でしたが、

飛騨屋久兵衛事件で罪を一身に負って、江戸に隠棲していました。

江戸では土山宗治郎、工藤兵助に近づき、北辺情報を提供していたそうです。

「赤蝦夷風説考:井上隆明編」より

 

 

山口鉄五郎、庵原弥六宣方が、西蝦夷地のカラフトまで渡航した。

その頃、山靼人が21人カラフトへ渡ってきていた。

山靼は満州の属国で、朝鮮族によく似ている。

韃靼*1辺りの国の中でも中心らしい。

カラフトの納甲(なこう・地名)から海路一日で山靼の海岸につく。

海辺を三日、山道を八日、川を舟で一日かかると凰披という湖に出る。

この湖沿いに五日進むと欽地漠に至り、ここには六、七十軒の集落がある。

湖水を渡ること二日で満州の大河に出る。

(中略)

山靼人はカラフトや宗谷で交易をする際、蝦夷人に対して、とても丁重な態度で対応し、言葉巧みに自分の国に同行させ、

「来年は必ず帰す」

と約束しながら、結局誰も戻ってこない。

毎年そうである。

蝦夷人はそれが悔しいと、どんなに高価なものでも、悪党たち(山靼人)の持ち込んだ品物は投げ捨てたという。

 

山靼人との内々の交易は領主(松前藩)に禁じられている。

 

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家族会議

 

 

 以上が原始謾筆風土年表~巻14~になります。

 

所々、その年のエピソードの順番を変えたりして

(一応)演出もしているつもりですが、

試行錯誤しながら、

もっと上手く、みなさんに伝えられたらと思って

頑張っています。

 

絶対に学校の教科書には出てこない、

源さんの目を通して映る

江戸時代の大畑から発信される歴史の数々と

 

意訳されている佐藤ミドリ先生をはじめ、

大畑で出会ったたくさんの人たちの思いを載せて、

源さんが行く

今後ともよろしくお願いいたします。

 

源さんが行く/第一集・完

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

次回は

源さんが行く/第二集

クナシリ・メナシの戦い(天明七年~寛政二年)

源さん40代の記録につづきます

 

源さんが行く14 - こめいがねんど

  

*1:だったん=トルコ系モンゴル人