こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く17

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

天明七年(1787年)の記録・其の四

脇野沢の観音堂の地面を整地したときに、古銭一貫文が掘り出された。

十四世紀の頃の中国の洪武津宝(こうぶつほう)が多かったらしい。

 

昭和45年(1970年)、旧脇野沢村小沢集落の県道沿いよりごく緩やかな勾配を山手に向かって登ること約24㍍、 その道路端の側溝工事中、地下約1㍍の土砂を掘り出していたところ、上部が腐食してもろくも崩れ、底部が水分を吸収して原型とどめ、銭貨が土にまみれた状態で中に入った縦・横・高さ約15㌢、厚さ1.65㌢ほどの立方体の木箱が発見された。

調査では、発見銭貨枚数5205枚あり、すべて銅でできており、中国から渡来した銅銭であることが判明した。

明時代の洪武通宝は初鋳年が応安元年(1368)であること、しかも枚数が三百二枚と割合が高いことなどから、北方への流通に多くの時間が経過していることが想像できる。

そうなると、この小沢古銭が蠣崎の乱を起こした蠣崎氏にかかわる備蓄銭(埋蔵金)と仮定すれば、蠣崎城(中世の館)の築城年代もおのずと南北朝の始まりの頃ではなく、室町時代の十五世紀やや前半と推定できる。

このように、中国渡来銭が若狭・小浜辺りに陸揚げされ、日本化交易ルートに乗り、宇舎利の浦々にもたらされたのであろう。

【奈良 仁:下北・上北の歴史/郷土出版社】

 

■江戸市中では毎月の費用を描きださせて、そのうえで倹約できる費用を書かせ、両者を比較照合させて、節約分を積み立てさせた。

これで籾を買い求めさせ、いざというときの蓄えとさせた。

 

町の運営費である町入用の倹約を命じていた老中・松平定信が、倹約で浮いた額の七割を積み立てさせる七分積金をはじめた。

江戸の地主は町入用の負担義務を負っていたが、人口の増加などにともなって負担が年々膨張した。

このため地主は地代や店賃*1を値上げして対抗、物価の高騰とともに深刻な社会問題となっていた。

松平定信の政策は、経済の安定を図るため町入用を節減し、倹約分を町会所に貯穀・貯金して、飢饉や火災時の施米、施金や貧民の救済、低利融資の財源などにあてようというもの。

翌年には、積み立てられた金や穀物の管理運営にあたる町会所が浅草向柳原(むこうやなぎはら)に設置される。

この制度は、1868年に町会所が廃止されるまで江戸の都市政策の根幹をなし、積み金は東京市にひきつがれて社会救済事業など広く活用されることになる。

【日本全史・寛政三年の項】

 

■上総の不受不施の法花宗(ほっけしゅう)禁止の立て札が立つ。

 

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以上、天明七年の記録になります。

 

なんか松平定信が行った政策は

現在にも通じるようなところがあると思ったのは僕だけでしょうか?

そんな政治に詳しくないので、止めておきます。

 

天明八年の記録

源さんが行く18 - こめいがねんど

へつづく

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

*1:たなちん=家賃