源さんが行く61
価格:4,526円 |
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政五年の事件・ラクスマンの来航に関する資料編です。
資料編①松前の日露会談進展せず。ラクスマンに長崎回路を要請
六月二十七日、前年、漂流民大黒屋光大夫らを伴って根室に来航したロシアの特使ラクスマン(28歳)と、幕府派遣の目付・石川忠房(39歳)、村上大學(21歳)による三度目の会談が、松前で行われた。
鎖国後初の通商・外交を求める使節だが、外交交渉の窓口である長崎への回路を主張する老中・松平定信の意見により、 長崎への入港許可証を交付したにとどまった。
ラクスマンは来航以来、十か月近くこの会談のため根室で待機していた。
第一回目の会談は六月二十一日、松前藩の浜屋敷において行われ、二十四日の第二回目ではラクスマンがシベリア提督の公文書を手渡し、同時に遭難船員の引き取りを要請。
日本側は長崎以外の地での交渉は応じられないと伝えるが、船員の引き取りは承諾した。
三度目の会談でも幕府は姿勢を変えることなく、再度長崎への廻船を求めた。
六月三十日、ラクスマンは不本意ではあるが一応成果を上げたとして、長崎へ向かうことなく帰国した。
大黒屋光大夫、磯吉の二人は九月十八日、江戸城の将軍の面前でロシア事情について取り調べを受け、その体験談は翌年、蘭医の桂川甫周により「北槎聞略」(ほくさぶんりゃく)としてまとめられた。
【日本全史より】
資料編②菅江真澄著「遊覧記」
ラクスマンの来航に関連して、菅江真澄は、下北で見聞したことを詳しく遊覧記の中に記録しています。
菅江は寛政四年十月、四年余りも滞在した北海道を去り、奥戸に渡っています。
北海道を去る前日、根室に寄港したロシア船が日本漂流者を乗せている噂を耳にしたことを記し、また、あの多賀丸漂流者の孫がその船に乗っていると佐井ではみんなが話していたと「牧の冬がれ」に書いています。
そして翌年のこの年、恐山の湯治場で岩屋沖に碇泊したロシア船の話を聞いたこと、下北の海辺視察に来た江戸幕府の要人たちを易国間で迎えた話なども記録しています。
◇寛政五年六月七日(恐山にて)
里より人の来て語るを聞けば、去年より厚岸の磯辺なるネモロ(根室)というところに在りし、カムサッカのほとりなるロシア人、こたび、召しあればとて松前の福山の湊に行くとて、エトモ(室蘭)が崎より乗り出して、霧(モヤ)深ければ船道に漕ぎ迷い、この南部の岩屋の浦に寄せて、童(わらわ)の居るにこと問うに、
「あなおそろし、たけ高く姿 異なる者来し」
とて叫ぶをいぶかり、浦の長(おさ)、もの書き(書記)など海辺に下りて問えば、日の本の詞(ことば)を、さへぐように(聞き取りにくい話し方)もの言うあり。
【菅江真澄/牧の冬がれ】
以上、ラクスマンの来航に関する資料編でした。
そりゃ霧の中から船に乗った外国人が現れたら、子供じゃなくてもびっくりしますわ。
そんなわけで、次回からは寛政六年の記録に入ります。
へつづく
最初から読み直したい方は
第二集の最初から読みたい方は
第三集の最初から読みたい方は