こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く80

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

寛政八年の記録に戻ります。

 

寛政八年(1796)の記録・其の六

閻浮檀金(えんぶだんごん)と称して信濃(長野県)の善光寺が、全国巡りを行う。

 

画工の雲山と津軽の二代・将監(しょうげん)が色彩画を伝授した。

推古天皇十八年(609)に高句麗から来た渡来僧が、雲紙*1宿紙*2白紙*3彩色の黒を製作した。

 

 

■榎友*4の白鳥の澗*5にイギリス船なのか、ロシア船なのか、二重構造の帆柱の間を三尺ほど透かせ、三重の深さ二丈三尺(約10㍍)もあるだろうか。

龍頭、見送りの額もあり、木偶を三重にすえ、包板は厚さ三分(1㌢)の銅で、隩頭鋲(?)は鉄で造られているようだった。

一つ爪の錨へ石を結びつけており、その綱は髪筋に綯(な)ったもの、椰子や棕櫚が材料となるものもある。

樽は鉄輪もしくは龕(がん)皮*6輪などである。

船の形からは八、九百石に見えるが、深さを考えると二千石余りかもしれない。

この地に住む人々が代わり代わり、この船に乗り込むと丁重にもてなしたという。

天球儀を取り出し、日月(太陽や月)五星(惑星)、二十八宿の星座も見せたらしい。

乗組員四十九人*7、その中に女官らしき人もいて、旧暦七月から十数日間この白鳥の澗に滞在した。

家老松前左膳大夫広政がクナシリ島視察の途中立ち寄って対応し、松前藩からは工藤平右衛門と医師の加藤肩吾が向かった。

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以上、寛政八年の記録でした。

次回は、このイギリス船について、原始謾筆風土年表・資料編から、もうちょっと詳しく紹介してみたいと思います。

 

源さんが行く81 - こめいがねんど

へつづく

 

 

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*1:くもかみ=上に青色、下に紫雲を漉してあらわした鳥の子紙。色紙・短冊に用いる

*2:しゅくし=薄墨色の漉き返しの紙

*3:はくし=中国渡来の紙で、薄くて白いもの

*4:えとも=室蘭

*5:ま=湾または海岸の船着き場・船曳き揚げ場

*6:雁皮?

*7:※実際は百十人乗り