源さんが行く81
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
前回のイギリス船の記録を、今回は原始謾筆風土年表・資料編からもう少し詳しく紹介したいと思います。
イギリス船プロピデンス号と探検家ブロートンの航海
室蘭に入航した船は、イギリスの探検家ウィリアム・ブロートン艦長(1762~1821)の乗った船でした。
大黒屋光太夫を乗せたロシアのラクスマンの来航以来(寛政五年)、北方防備は江戸幕府にとって重大な問題でした。
さらに拍車をかけたのが、このイギリス船の噴火湾入航でした。
ブロートンの第一回目の来航
寛政八年入航の船の名はプロビデンス号。
源さんは四十五人乗りと記録していますが、実際は百十人乗りでした。
その中に、源さんも記す通り、女性が一人だけ乗船していたとか。
船体の長さ三十間余、積載量420㌧、大砲十六門、艀(はしけ)五艘、革船二艘を備え、日本を含む北太平洋アジア大陸の東沿岸部の測量・調査が目的です。
(この人は、何度か紹介している、菅江真澄の「遊覧記」という書物にも出てきます。)
ロシア語を話すことができたため、ラクスマン来航時に直接対応にあたった人物で、その経験を買われたのでしょう。
この人はまた、地図に深い関心を持ち、蝦夷地の地図も作成しています。
ブロートン一行は、ロシアで作られた世界の航海図やキリル文字のアルファベットで書かれた本を見せられました。
これらは加藤肩吾が以前ラクスマンと接触した折に得たロシア語の知識とその時に筆写した地図でした。
加藤肩吾は自分が模写した地図をブロートンに贈り、ブロートンは返礼に、キャプテン・クックの作成した世界地図を贈ったといいます。
世界に目を向けていた加藤肩吾にとってキャプテン・クックの世界地図は喉から手が出るほどの貴重品でした。
ブロートンにしても、その頃の世界地図の中で空白になっていた北海道周辺と沿海州の地図が入手でき、これに力を得て翌年、間宮海峡に挑戦しています。
しかし、このプロビデンス号に関する日本側の記録はほとんど残っていません。
幕府の注目を集めたくない松前藩の意図が働いたからと言われています。
にもかかわらず源さんが、正確とは言えないながら記録している事実は注目されます。
以上、プロビデンス号・第一回目の入航に関する資料を紹介しました。
そうです、翌年にも第二回目の入航があるわけなんですけども、それは次回
源さんの寛政九年の記録の中で紹介していきたいと思います。
へつづく
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