源さんが行く156
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
資料編・伊能忠敬のこと2です
享和二年(1802)の記録・資料編(2)
伊能忠敬のこと(2)
伊能忠敬が幕府の命により蝦夷地の測量に携わる直前の動きを見ておきましょう。
この論文には幕府御用船政徳丸のこと、大畑出身の長川仲右衛門のことも出ています。
幕府は東蝦夷地の経営にあたり、会所(漁場など)運営、道路開削、橋新設、渡船場設置、宿駅・休所開設、人馬の配置、継送業務を確立させ、陸路を整備して人の往来を自由にし、迅速かつ大量の物資を移出入するため東蝦夷地へ直接海路を開くことを急務とした。
寛政十一年三月末に海上輸送の第一陣として富山元十郎・松田仁三郎、水主同心組頭格(御用船政徳丸船頭)長川仲右衛門、水主同心露木元右衛門らの幕吏(ばくり=幕府役人)が御用船・政徳丸(千二百石)に乗船して品川からアッケシに海上試乗として出帆した。
この船は三月二十四日に品川を出帆し強風と濃霧に悩まされ、ユウフツ沖で樽前岳を見て北上、エリモ崎を廻って六月二十九日にアッケシ港に着いたが、三か月を要するものだった。
幕府は東蝦夷地への直轄海路を開くことに強い執念を燃やしており、寛政十一年三月浦賀で神風丸(千四百六十石)を新造した。
この船により天文観測で方位を定めて、東蝦夷地へ直接航路を開こうとするものであった。
ただ、この船の水主・長川仲右衛門には天文観測の術がなかったので、これに長けた者を乗船させて海上から観測した測量図を作ることにし、津和野藩士・堀田仁助に目をつけた。
…六月二十七日、御用年神風丸は品川を出帆した。
天候に恵まれ途中仙台領や南部領に立ち寄りながら、八月に宮古に入湊した。
逆風のため二十日ほど日和待ちをしたが、二十五日には順風を得て出帆。
二十八日まで陸を見ることなく航海して二十九日には無事アッケシに到着した。
これまでの航海は陸奥地方と蝦夷地の沿岸を目視しつつであったが、今回は宮古から東蝦夷地への外洋航路が開かれたことを意味する。
わずか五日間の船旅であった。
つづく
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