源さんが行く139
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの記録、寛政十二年11になります。
寛政十二年(1800)の記録・其の十一
湯酒盛(ゆざかもり)と称し、数人のグループがあちこち数グループ、互いに招き合い料理を配膳し、餅などをふるまう行事がある。
※むつ市川内町では夜酒盛(よじゃかもり)と称して現代まで続く若い女性たちの婚活のしきたりが残っていた。
おそらく源さんの記録する湯酒盛と同じ起源と理解される。
二十歳ぐらいの若者たちを集めて祭礼の歌舞伎の賑恤*1をした。
それが出来ない年は、秋振るまいと称して若者たちを三、四人ずつ、何グループかに分けて集め御馳走をした。
今年の秋振るまいの席では私(源さん)がこんな話をした。
正面や過去を先とも前ともいい、後ろや未来を後とも跡ともいう。
武田信玄の軍学書『甲陽軍鑑』に「跡二十四代へ義を立て難し」という一文がある。
この場合の跡は未来を指すのではなく過去の人たちを指している。
この言い回しは一種の方言と考えてよいだろうと。
漁祭と称し、網方(あみかた)や年行事*2、魚屋へ修験を招き、祝いをする行事があった。
間尺方けんじゃくかた=船の間尺税の担当者はこの湊に入港する船が多くなるように祈り、修験の元でご祈祷を済ませてから御用始めとなる。
組頭や会所へ場所を移して酒食でもてなしたが、この風習も今はなくなった。
十二月十二日は山の神の祝い、一月十一日は船霊(ふなだま)の祝い、これは問屋毎に振る舞いが行われて今も続いている。
ヱビス講*3や店卸(たなおろし)の祝いは数軒で今も実施されている。
甲子(きのえ・ね)待ち*4や己巳(つちのと・み)の日待ち*5もある。
外山(関根橋)の佐五兵衛が風邪をひき、悪寒にあえいだ時、根性試しにと九月の夕べから三か月、水垢離(みずごり)の行を行ったと聞く。
何とも命知らずの豪傑よ。
以上、寛政十二年の記録でした。
正直、今集の後半の風習行事は何度読み直して、何度ネットで調べても、うまく絵に表現できませんでした。
もっともっと、いろんなことに興味をもたないといけないなと思いました。
次回からは、年号が変わりまして、享和元年の記録に入っていきます。
へつづく
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