源さんが行く62
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政六年の記録に入ります。
源さんは47歳。宿老の職に没頭しております。
寛政六年(1794年)の記録・其の壱
大坂の赤石から無染媼という書家が来た。
根室に大黒屋光大夫を乗せてロシア船が入港した折、江戸幕府から松前に派遣された御普請役の田辺安蔵が、北通りへ「馬を借り上げたい」とやって来たが、
花巻の画工・小野周徳がしばらく滞在した。
俳諧詩歌集「星石賦」を届けてくれた。
菅江真澄著「奥の冬ごもり」
寛政六年十月一日(石持にて)
石持てふ山里に祭る石神にもうでんとて出(い)づ。
谷(やち)なかの道、日頃の雨にぬかり行きがたしとて、目名村より鹿橋(ししばし)を経て、そがい(後方)を行く道あり。
濃きも薄きも、情け深う染めつる色のおかしう分け入れば、里近き松山にかん籬*2あり。
母衣埼明神(ほろさきみょうじん)と唱え奉る。
この村は、大利と言える浜館(はまやかた)の東(ひんがし)に在る伊奈崎より、昔、ここに移りて、その頃に、その辺より神をもうつし奉りしとなん。
この広前*3にながめて(和歌を詠ずる)奉る。
すむ民を猶(なお)や守らん
秋ごとにみのる田面(たのも)の保呂(ほろ)埼の神
畑中誰(た)れとかやが屋の尻なる、刈り上げし粟生*4の中に、子牛の臥せるが如き岩あり。
その岩のつら(表面)より小石生み出づるは、(宮城県)栗原郡七の杜の一つに、彦八井耳命をまつり奉るという、遠流志別石神と名づけし石に同じ。
この石なご(小石)、一つ、二つ、つと(さっと)拾いて、
生み出づるさざれ(小石)も岩も栄行く
末(すえ)守りませ
石持の神
ある優婆塞(うばそく)、いかにぞや、いわれなき神にさえ幣(ぬさ)取りいただき祭るはと言えるに、
ちはやぶる神のみさかに麻(ぬさ)まつり
祝う命は
母(おも)父がため
てふ歌の如といらえ(答える)つれば、うち笑みて去りき。
見るがうちに四方八方空暗く、一通り雨ふり過ぎぬれば、主(あるじ)のとうめ(老女)、泊りねとて宿貸したり。
へつづく
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