源さんが行く38
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政二年の続きです。
寛政二年(1790年)の記録・その弐
■安房(千葉県房総)の那古(なご)にある恵美の古泉院で四月八日、突然大地震が起こった。
寺の中にいた人々は驚き、脅え、寺の表に走って逃げた。
ところが、その途中で大量の水が噴き出して逃げ遅れ、人々は住職と共に前世の果報薄く溺死してしまった。
去年は丹後の成相寺(なりあいじ)で同様のことが起こった。
寛政四年には丹後で四千五百石、出羽(山形)の酒井、佐竹、六郷、戸沢家で四万六千石分の土地が液状化現象により陥没したという。
地下に流れる水脈に異変が起こり、次第に地価の弱い部分から渦巻き噴き上がるということらしい。
持統天皇七年十一月に江戸で泉がわき上がり、養老元年(717年)九月には美濃(岐阜県)でも泉がわいた。
異国でもこうしたことはあったらしい。
暦陽の都が一晩で沈下し湖になってしまった。
正中元年(1324年)十一月に竹生島の半分が沈没した。
元弘元年(1331年)七月一日地震で紀州(和歌山県)の千里浜が陸となった。
温泉がわき出るのも、泉が出来るのも、また新しい山や島が出来たり消えたりするのも、自然界の影と陽の調和によるものらしい。
過ぎたるは及ばざるがごとしだが、それもまためぐり合わせなのであろう。
■熊野の大島へ南京に近い乍甫*1の船が仮係船して、ハシケで陸に上がってきた。
千石分もありそうな革袋二箇へ水を汲み入れて、本船に引き揚げていったという。
その時、島の人たちが酒を提供したところ、お礼にと七言絶句を残した。
その場で作った即興詩だった。
■東海(日本海)へ異国船が現れたため、各藩の海岸で異国船を見つけたら「至急注進せよ」との命令下る。
以上、原始謾筆風土年表・第二集の記録でした。
実は寛政二年の記録はまだありまして、
次回、第三集は寛政二年後半から始まります。
そりゃそうですよね、
今集はクナシリ・メナシの戦いという大事件があったわけですから、
源さんもさすがに一冊にはまとめられなかったようです。
というわけで、次回から原始謾筆風土年表・第三集
寛政二年から寛政四年までの記録へ続きます。
へつづく
最初から読み直したい方は
第二集の最初から読みたい方は
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*1:サホ=上海の南の主要湊町。江戸時代は乍甫が唯一の長崎航路であった。