源さんが行く37
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
時代は1790年、
源さん 43歳。宿老として仕事に励んでおります。
寛政二年(1790年)の記録・その壱
沢田文次郎が、「正八幡宮御祭礼」と東江源隣が行書で書いたのぼり旗二本を奉納。
五月十九日、春日神社で湯立の神事が行われ、以来、恒例となる。
正月十九日には以前のように宵宮が行われるようになる。
宝国寺において雲水(旅の僧)の弁能が、永観の著した「往生拾因」*2について語った。
その席の話題に賢誉祐天(けんよゆうてん)の行状記(ぎょうじょうき)があった。
語り口のうまさに満座の人々が聞きほれた。
熱心に〈あみだぶつ〉を唱える者は信心が深まり、
剣を持つ者には刀剣の目釘*3となり、
琵琶奏者はもう一本の心の琵琶となる、と…。
誰かが福島の煙草入れを忘れていったので、二重になった袋の口を開けてみた。
中には炒り豆と狩頭蘭(カリントウ?)と質札*4が入っていたので、みんなで大笑いしてしまった。
祐 天
(1637~1713)江戸時代中期の浄土宗の僧。
福島県磐城の人。明蓮社(みょうれんじゃ)顕誉(けんよ)と号した。
念仏布教に努めて生き仏と尊ばれた。
五十歳で諸国を遍歴、数年後に隠遁したが、将軍家(綱吉、家宣)の帰依厚く、
徳高く上下の尊信を受けた。
受けた布施はすべて廃寺の復興にあて、奈良の大仏殿、鎌倉の大仏の補修は著名。
死後、庵居後に祐天寺(東京都目黒区)が建てられた。
へつづく
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