源さんが行く83
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
今回は、前回の八幡宮例祭の不思議につて説明した、原始謾筆風土年表・資料のなかから、中嶋康夫氏の記述の続きを紹介したいと思います。
八幡宮例祭の不思議~幕府御用船政徳丸と長川仲右衛門(2)
長川仲右衛門は大畑に拠点を置いた飛騨屋に雇われ、飛騨屋に託された御用船政徳丸の船頭をしていた。
飛騨屋久兵衛は、飛騨の高山から江戸を経由して、元禄十三年(1700)、大畑のヒバに着目して進出した人である。
大畑進出の二年後には松前にも渡り、松前藩から伐採許可を得て事業をのばし、安永三年(1774)からは室蘭、厚岸、キリタップ、クナシリの場所請負を始め(翌年からは宗谷も含む)、山から海へ仕事を転じていった。
場所では当初アイヌとの交易を目的としたが、後にはアイヌを働き手として直接経営にあたるようになった。
寛永元年(1789)五月、クナシリ島で蝦夷が蜂起して七十人余りの出稼ぎ人などが殺戮される事件が発生した。
蝦夷人に殺害された七十一人のうち下北の出稼ぎ人が四十二人もおり、大半が大畑ゆかりの人々であった。
このクナシリ事件後、飛騨屋の場所は阿部屋(あぶや)村山伝兵衛の請負に変わる。
また幕府が御救(おすくい)交易を推進し蝦夷地の調査に本腰を入れるようになる。
寛政三年(1791)、長川仲右衛門は幕府御用船政徳丸(千二百石)の船頭として召し抱えられ、翌年(1792)には幕府の御救交易御用の西蝦夷地およびカラフト探検要員として最上徳内などと参加する。
飛騨屋時代から政徳丸を操り、蝦夷地航路を知り尽くしている経験を買われたものであろうか。
長川仲右衛門の預かった政徳丸は、寛政五年に蝦夷地へ幕府御用船の印である「朱塗り」を行い、帆柱や櫓(やぐら)を赤く塗った。
原始謾筆風土年表・資料/中嶋康夫紀記より
へつづく
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