源さんが行く64
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政六年の記録その3です。
寛政六年(1794年)の記録・其の参
幕府御用船政徳丸は三年前の亥年(寛政三年)に初めて朱塗りの御用船になった。
そして今年大畑に入湊する旨の御用達が届いた。その内容は
「幕府御用船政徳丸の御船手*1向井将監組の水主同心を海船修行のため差し遣わすので、どこの湊においても入湊や出帆の際に支障のないよう曳(ひき)舟を差し出すこと。
かつまた、積荷の売買については商人たちと同じように水主同心組頭格の長谷川仲右衛門(大畑出身)が執り行うこと。
その際、入湊税は不要とする。
口銭*2はいささかの相違もなく支払う。
その旨を承知せよ。」
というものだった。
御用船が、「添い触れ」(往来切手)通りに、材木や鰯糟(ほしか)の買い入れに参入しようとした。
そのため、その対応について田名部代官所へ相談に出向いた。
「日常的に行われることではないので、できるだけ自然に取り扱い、行き違いが起こり、容易ならざる事態にならないように処理せよ。できるだけ積荷を取り扱わないという方法もある」ということだった。
しかし、積荷が滞り出したため、御用船の役人が
「代官所に直談判する。代官に合わせろ」
との剣幕だった。
黙って見過ごすわけにいかず、急ぎ船を離れて、先回りして代官所に駆けつけ、事の次第を報告した。
「代官所に事が及ばないよう、すぐに駆け戻り、船役人を途中から引きかえさせよ」との指示だった。
ただただ慌ただしく、事が切迫しており、息せき切って駆け戻った。
鶴沢山の崎のあたりで彼らと出会った。
きちんと事の処理ができなければ、宿老の職もこれまでと覚悟して、精一杯説明し納得させた。
長谷川仲右衛門は、以前、我々の管理下にあった(大畑の)人間だったし、岡本綱五郎も面識があった。
事態は困難極まりなかったが、何とか穏やかに帰路につくことができた。
諸外国のことなど話題に語り合いながらしながら、暮れ頃、大畑に立ち戻った。
へつづく
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