源さんが行く115
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
幕府の東蝦夷地直轄の影響を受けた大畑の記録その五です。
寛政十一年(1799)の記録・其の伍
三月十五日に幕臣の岡田佐市が青森へ出立し、米三百俵を買い取り、船を大畑へ廻す予定で、二十九日大畑に戻ってきた。
ところが、それらの米を積んだ安渡(大湊)の義兵衛と文治郎の二艘の船が強風のため予定を変更、安渡湊に入ってしまって。
その詮議*1のため、四月六日の夜、数十の高張提灯を掲げた馬の列が安渡に向かった。
風がおさまり次第、大畑湊に船で廻送することにして事は決着した。
三月三十日、木和田川山において、桧葉(ひば)の間伐材百本を伐採させ、一本五十文で買い取り、五大力船と天当船の建造用に分配した。
四月九日には幕府の正田周平と渡辺大之助が大畑を出立して松平信濃守忠明(五人の面々のひとり)公を野辺地にお出迎えし、十五日に戻ってきた。
大畑の中島は木材の切り込み場となり、湊の浜は造船場と化している。警護の役人も野辺地から六人が加わった。二千両か三千両の千両箱が盛岡から届いた。使節として南部藩の勘定台・栃内与兵衛や代官の往来もしばしばである。いつの頃か、代官以上の御偉方をお泊めする宿では下馬縄を宿の前後に張ったが、このように御偉方の往来があまりに頻繁となって省略することになった。
「南部家旧蔵文書 蝦夷地御用留」
大畑において御入り用次第、追々相納め候趣に御座候えども、大畑の儀は代官役屋も建て置き申さぬ辺鄙の儀、あまねく永々預かり置き奉り候儀、不安心に存じ承り候ゆえ、右、御金到着次第、その筋御役方へ皆納め仕りたく存じ承り候」(南部藩文書)
(意訳)大畑において入り用な分を随時お届けするべきですが、なにせ大畑は代官所もないへんぴなところなので、全額そのまま預け置くのは心配ですので、四千両が到着し次第、その筋の役所に全額預けておき…
以上のように人や物や船、蝦夷地の建屋の材木の切り込みなど資材調達が、「へんぴな」と記される大畑で行われたのでした。
大畑湊は、船による東蝦夷地への大量輸送に欠かせない重要な湊だったのでした。
【原始謾筆風土年表・資料より】
へつづく
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*1:せんぎ=取り調べ