源さんが行く120
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
幕府の東蝦夷地直轄の影響を受けた大畑の記録10です。
寛政十一年(1799)の記録・其の十
六月二十三日、幕臣の佐藤茂兵衛、正田周平、渡辺大之助、河野権治郎、根津清左衛門の五人も出立。青森を経由して蝦夷地へ渡っていった。
季節のなんと移ろい易いことか、気がついたら、青々としていた木々の葉は、もう色づき始めていた。さらに、日の光に涼しさが加わり、月影(月光)も涼しさを増していた。
二百五十石の官船・隼丸(はやぶさまる)を造船することになった。
大工は向井清兵衛。
円祥山大安寺の杉の木四本を十八両で、田名部からも杉の木五本を十両で買い上げた。
これらを運ぶ十八頭の馬の駄賃は四両三歩。
杉の木はいずれも周囲六尺五、六寸の太さのものだ。
「今年の春、御用船造船に用いた材木の残りを私どもへ預けられました。
その折に預かり所を差し上げました。
この度、また御用船建造ということになり、これまでお預かりしていた材木類はお返し申しあげましたところ、差し上げてあった印形入りの書付は返却され、私共、確かに御受け取り致しました。
(向井)清兵衛
(新谷)荘助
(菊池)与左衛門
(竹内)伝右衛門
(堺)忠兵衛
(邑林)源助
九月六日
渡辺大之助様、河野権治郎様」
八月二十日、佐藤茂兵衛が北海道から津軽へ渡り、二十五日大畑に到着して、隼丸造船の現場に立ち会い、二十七日出立した。
和田兵太夫は津軽経由で九月二日大畑に到着し網方の御用を済ませ、二十九日に和田、渡辺、河野らと共に出立した。
小幡専治郎は十月八日当湊に到着。網方の御用を済ませて十二日に出立。
小林卯十郎は十月八日に当湊に到着。新道開拓の出稼ぎ人夫の賃金の精算を済ませ、
「この春に雇い入れた人夫達は、御用中、一人の故障もなく頑張ってくれた。今日をもっての解雇である。その旨、心得よ。」と話し、二十一日まだ出立した。
富山元十郎も北の蝦夷地から到着。恐山を経由して二十三日(江戸へ)出立した。
へつづく
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