こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く148

  

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

源さんの享和二年の記録に入っていきます。

源さんは55歳になります。

 

享和二年(1802)の記録・其の壱

幕府の三橋藤右衛門(五人の面々)が津軽から渡海して箱館の取り締まりに当たる。

四月、五月に大畑を通過して行った幕臣は、近藤重蔵、比企市郎左衛門、大嶋栄治郎、深山宇平太、高橋治太夫、戸田又太夫

 

幕臣佐藤茂兵衛と萩野藤太郎、及び大工の棟梁の橋本治郎兵衛配下の二十人が箱館奉行所造営のため良質の柾(まさ)材木を買いつけに来た。

 

箱館南部藩津軽藩両藩の陣営を配置。

 

箱館出役・南部藩監察の上田郡左衛門と兵九十人が野辺地から出帆したが、三十里先の木古内(きこない)沖で遭難、四十人余りが溺死した。

 

七月三十日から八月二日まで大畑は洪水。

 

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僧録*1により、五山の曹洞宗法恩寺に次ぐ十刹(じっせつ)に数えられる清養院の化僧*2が当地にやって来た。

康暦元年(1379)足利義満が春屋妙葩*3に僧録を任せ、徳川家康南禅寺金地院(こんちいん)の崇伝に僧録を任せた。

 

孫次郎間街道の川岸を一町(百㍍強)ほど上がり、南岸の大石を掘って八幡宮の鳥居を作ろうとしたが、延べ七、八十工(※一人一日分の作業量を一工と数える。)で中止した

 

宝国寺の応門(正門)の花壇にキクラゲが生えることがあった。

寛政六年(1793)、路地の大きな松の木が倒れたため、もしや生薬の茯苓*4が生えていないかと期待したら、なんと零芝*5が採れた。

 

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 へつづく

 

 

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*1:そうろく=禅宗の僧職。五山十刹および所流の禅寺を統括、人事をつかさどった

*2:新たに寺を継いだ僧

*3:しゅんおうみょうは=南北朝時代臨済

*4:ぶくりょう=松の根に寄生するまつほど

*5:れいし=マンネンタケの漢名。漆のような光沢があり堅い。乾燥して床飾りとして愛玩される