源さんが行く121
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
幕府の東蝦夷地直轄の影響を受けた大畑の記録11です。
寛政十一年(1799)の記録・其の十一
函館御用番(幕臣)の水越源兵衛が大畑にやって来た。
幕府の箱館御用商人は栖原荘兵衛、栖原久次郎、伊達林右衛門、平岩平八、田中久兵衛、阿部屋村山伝兵衛、外に京都、大坂、敦賀、新潟、酒田、宮古、青森、松前、江戸にそれぞれ会所を置いた。
大畑には菊池与左衛門、新谷荘助に八月二十日、改めて幕府御用扱い商人の命があった。
幕府直轄下の箱館
幕府直轄下の蝦夷地経営は、多分に国防的観点を前面に押し出し、松前藩政下の弊害の多かった商人による場所請負制を廃止し、幕府自らが直接に経営する、いわゆる直捌き(さばき)制度をとった。
従って、従来請負人の手によって行われた蝦夷地における住民の撫育介抱はもちろん、それによって生産された産物の交易、集荷、流通の面に至るまでも、全面的に幕府役人の手によって統制運営された。
その具体的な方法として、住民の動揺を考え、請負場所における支配人・通詞番人などは各々希望に任せ、これまでの通り使用することにしているが、監督を厳重にして松前藩と直結していた近江商人団を排除し、天明期前後から成長した伊達林右衛門、栖原角兵衛、阿部屋伝兵衛、高田屋嘉兵衛などの新たな商人を積極的に登用したところ、ひとつの大きな特徴がみられる。
すなわち寛政十一年仮直轄になると、会所を箱館ならびに江戸を設置するとともに、全国枢要の地に御用扱い商人として、寛政十一年、十二年には函館では栖原庄兵衛、伊達林右衛門、阿部屋伝兵衛、平岩平八、江戸では栖原角兵衛、栖原久次郎、田中屋伊助、京都では越後屋利右衛門、大坂では多田清左衛門、伊丹屋四郎兵衛、小山屋吉兵衛、南部大畑では菊地与左衛門、新谷元左衛門(新谷荘助)、敦賀では納谷伝兵衛、飴屋治左衛門、房州銚子では十五屋伝衛門などを、それぞれ御用聞に命じている。
次いで、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎、磐城、浦賀、下田などにも会所を置いた。こうした新たな商人を御用聞として上から把握して、流通の拠点となる要港をおさえ、同時に蝦夷地各場所では旧来、場所請負人の場所経営の中心となっていた運上所を会所と改め、幕府役人を在勤させ、これまでの運上屋の機能のほかに、公務をも執行する出張役所としての性格を持たせた。
そして各地の建物はほとんど建て替えられ、その周囲に旅宿所をはじめ倉庫、作亭小屋、番屋なども数多く増築された。
原始謾筆風土年表・資料【函館市史デジタル版】より
へつづく
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