源さんが行く113
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
幕府の東蝦夷地直轄の影響を受けた大畑の記録を続けます。
寛政十一年(1799)の記録・其の参
三月十二日、最上徳内、小林卯十郎は到着するや否や、両替の件について問いただし、翌朝には持参の漢方薬の材料を天日干ししていた。
大急ぎ、天当船*1二艘を買い取り、その修理の作業には自ら参加した。
「ひとりで脊鉄を討ち延ばせ」などと鍜治場に入りこんだ。
槌を打つ動きから察して、「鉄を打つ木盤の底に石盤を埋め込むよう」などと指示した。
勾陳丸と白虹丸の二艘を野辺地で買い入れ、野辺地から蝦夷地へ出航した。
その目的は、新しい航路の開拓である。
人夫として三十七人を雇い入れた。
美籠と十勝の支配には、去年も御用を勤めた大坂屋弥五郎、新保屋吉右衛門が突然呼び出された。
新たに宮川文三郎も呼び出され、そのため、私源助めは、あわただしく必要な書面の下書きをすることになった。
「このたび、蝦夷地での幕府御用のため宮川文三郎を雇い入れたい旨の申し達しがありました。書面の通り、雇い入れられても何ら差支えはございません。
三月十四日 検断 (竹内)伝右衛門」
ところが、これに対する藩からの受領印が遅く、
「願いの趣盲は、受領印をもって聞き届けるべし」
とのことだが、何せ時間がない。
「幕府御用につき、当大畑の宮川文三郎を雇い入れたいとの恐れ多い仰せですが、同人は南部藩主にお仕えする身でございます。
蝦夷地へ遣わし、先達として働かせていただくために当藩での御役目を御免下りたく存じます。以上」
上の文面を作成中に、正津川の十左衛門から
と申し出があって、辞表を提出せずに事は収まった。
津軽海峡を箱館に渡るには、三潮の潮筋が厳しく激しいので、往来の船にお偉方をお乗せした例は今まで一度もない。ぜひ内海からの出航をするよう出役から江戸に何度も掛け合ったが、結論はまだ出ていないようだ。
へ つづく
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*1:てんとうぶね=小型の川船。のち廻船・漁船にも