源さんが行く175
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原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
今回は源さん達が田名部代官所に訴えた背景をもうちょっと詳しく原始謾筆風土年表・資料から紹介します。
資料・「北奥庶民への重い負担/下北の一揆と蝦夷地警備」
文化元年九月、大畑町検断から田名部代官所に訴状があげられた。
その要旨は、寛政十一年以来、蝦夷地に渡海する役人のために人馬ともに努め、莫大な費用を負担したので難渋している。このままでは沿道村々の存続もおぼつかない。そうなったら御上の御用にも差支えが出るのではないかと苦衷を申し述べ、次いで箱館奉行ら諸役人の通行による難儀の有様を具体的に記している。
蝦夷地往返の公私役人の昼夜を分かたない通行、御用物の持ち送りのため正月から五月まで数千の人馬で粉骨を尽くし、家業も顧みないで心労の務めを果たしてきた。
そのうえ、いま箱館奉行交替に当たっては二日前に中野沢に詰め、それより佐井まで持ち送りし、帰府の時は佐井へ詰めて横浜までの持ち送りをしなければならない。
早春からの御用で人馬の疲労は甚だしく、このたびの務めもままならないのは、千万嘆かわしいことである。
このように述べて、今後、奉行交替のときは遠方への出張(人足)はとりやめて、大畑から佐井までの御用だけにしてほしいと嘆願している。
文中、大畑と異国間の間は他郷にない難所であるとも記している。
そして、次に重大なことを記している。
もし北通(関根から牛滝まで)の「御通行筋」の村々が田名部通全体の難儀と考えず、自分たちだけが特別に難渋していると思い詰めて「帰服」しないならば、「御大切の御用の場に至り候て、不弁(わきまえぬ)に相成り候ては不安なる御事に存じ奉り候」というのである。
大切な場所で「不弁」になることを心配しているという意味以上に凄みのある文言のように読みとれる。まるで一揆の予告のように思われる。
この訴状一件は、「夫伝馬(ふでんま)軽滅一揆」と呼ばれている田名部通で最初の民衆行動であった。
富岡一郎「上北・下北の歴史」郷土出版社
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