源さんが行く146
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和元年の記録その7になります。
享和元年(1801)の記録・其の七
江戸の山口第助は、骨董の目利きである。
文化二年にも大畑に来た。
茶入れには茄子形、常陸帯*1、大海小海、鶴首、瓢箪、瓜形、瓶子*2、甲乙形、鮟鱇*3、飯胴*4、餓鬼腹、梯形、達磨、餌畚*5太鼓。井戸(茶碗)、熊川*6、三島手*7、伯庵瀬戸系統の窯で焼いた茶碗に長治郎(楽焼の始祖)の楽焼さらに萩焼唐津焼、……
名水には中国では無錫(むしゃく)恵山寺虎丘、揚州の大明寺、淮河(わいが)、我が国では大坂城の黄金川、加茂川、伏見大橋の下の水。
磁器は砧(きぬた)青磁*8、浅黄色は時代が古く、花筒や香炉もある。鯉手、浮き牡丹、沈手、牡丹手、天龍寺竹の節は、延宝の頃、我が国に伝わったものである。
古美術の鑑定は、了佐、了栄、了祐、了周などと夜遅くまで話題が尽きなかった。
寛政九年(1797)から盛岡流の神楽獅子が田名部横迎組、栗山組、目名組、小目名組と年々行われた。
小目名組の神楽は、この年から大畑の祭礼の行列にも参加していたが、三年で中断した。
幕府御三方(松平、石川、羽太の三氏)が無事に佐井湊から北海道へ渡海させたとして関係者に褒賞が与えられた。
その件で田名部代官所に出向いた時のことである。
帰路に関根八幡宮の杉の木の落雷の跡を目にした。
太さ五尺余りの大木の根元から、八尺ほど上までぐしゃぐしゃに割れて折れ曲がり、砕け散っていた。
何ほどのものをもって打ったとて、これほどになるものかと驚くばかりだった。
同じ日、目名の里にも落雷があったらしい。
へつづく
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