源さんが行く135
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの記録、寛政十二年7になります。
寛政十二年(1800)の記録・其の七
廻船許可の請け印の手続きが滞り三百石の明神丸が取り調べを受けた。
福浦で伐採量が超過し、許可年限が守れなかったことで材木を没収された者がいた。
切り株柾や胴木*1は川流しを行い里で木挽きすべきものを、川幅がどうのこうの、川に近いの遠いのと、それなりに理由があって山で木挽きした者が、里で木挽きした柾も一緒に没収されてしまった。
また、奥内の山役人自らが宝暦以来の山法を犯したことが判明。
管内すべての山役人が免職になった。
ところで、宝暦十三年(1763)に南部藩の山法に違反して、三太郎川を請け負った運上屋が何日間も閉門を申し付けられているし、天明二年(1782)には筑前屋喜十郎が帆柱の巻鉄の部分を正津川で切り落とし取り調べを受けた。
そして今年の春の事だが、川流しした寸甫(すんぽう)材が鉄山*2の草むらに紛れていたことが、取り調べの対象になった。
おととし、幾吉丸を造船したときの、角材の代金の追銭*3が年を越し、そのまま出航しようとして「湊に戻れ」と命じられた。
しかしこの船、松前藩の御用筋のものだったため、そのまま出航が許された。
異国間と下風呂の山は大畑の山役人の管轄だったが、異国間が山役人一人を目論見(もくろみ)、大畑は二人に減らされた。
新規に採用されたのは平十郎と佐平治だったが、何年もせず新谷七兵衛と山本佐兵衛に替わった。
へつづく
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