源さんが行く129
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの記録は、寛政十二年に入っていきます。
宿老・源さんは五十三歳になります。
寛政十二年(1800)の記録・其の壱
幕府御用係は三越源兵衛とその配下の寺田忠右衛門と小林新五郎である。
■幕府小納戸(こなんど)の戸川藤十郎安倫、頭取格(源さんんはコナンドとルビ)の大河内善兵衛政良、御勘定組頭の村田鉄五郎が三厩から北海道に渡り、クナシリ島内九十里を巡る。
同行したのは幕臣の高橋三平、富山元十郎、山田鯉兵衛。
アイヌの風俗点検と和人化教育に取り組む。
■幕臣の近藤重蔵、深山宇兵太、関谷茂八郎がエトロフの島全体、二百里を巡りアイヌの和人化教育に取り組む。
男子アイヌには月代をそらせ、着物の襟を右前に着させる。
アイヌの七、八割がこれを受け入れた。
蝦夷地では珍しいことだ。
幕府からエトロフ島の委託を命じられた近藤重蔵は、前年、同島への航路を開いた高田屋嘉兵衛と共に島へ渡り、アイヌの同化政策を試みた。
北方防備体制の強化のため、前年一月十六日には東蝦夷地とクナシリ・エトロフ両島などが幕府の仮直轄領となり、同地域の開発とアイヌの同化が当面の課題とされていた。
エトロフ島への渡海は、高田屋嘉兵衛の持ち船千五百石の辰悦丸(しんえつまる)と小船四艘で行われた。
近藤重蔵はまず、アイヌに島民の保護と開拓のため来島したことを伝え、積んできた米・塩・たばこ・衣服・器具などを贈った。
漁場十七ヶ所を開き、漁法を教え、風俗を本州の和人と同じように改めるよう教育したので、髭を剃り、髪を結い、名を改めるアイヌも現れた。
また、全島を七郷二十四村にわける郷村制を定め、首長を名主、島民を村方と名付けた。
これらの同化は、ロシアの南下を強く意識した上でのことで、「外国人に親しむ者、その罪重かるべし」という掟が強制された。
資料編【日本全史】より
へ つづく
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