源さんが行く122
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
幕府の東蝦夷地直轄の影響を受けた大畑の記録12です。
寛政十一年(1799)の記録・其の十二
背中に泡のような白い縦筋のある島ネズミを釧路で生け捕りしてきた。
この生き物はトラフネズミ*1のように木に登る。
下から木を叩くと、上まで響いて怖いのか下りてくる。そこを摑まえるのだ。また、狐裘(けごろも、皮衣)のように十二、三枚縫い合わせて用いることもあるらしい。
眠る時は真ん丸になり平らな太いシッポを股の内側から目深にのせて掩(おお)うらしい。
また、佳背義というネズミののような生き物は細い穴に潜って生きている。
斜塵は尾が太く濃い紫色で栗鼠のように細い穴に潜って暮らす。
荷於伊は腹の部分が白く背は鼠色である。まるで犬のようだが、走る姿は飛ぶが如く、亀のように平らな五、六寸(十数㌢)の尾を持つ。
クナシリのコウモリは六、七寸(約二十㌢)もあり白毛も混じる。
また、最も上等とされる海草は、列のように並ぶ膨れのある昆布の一種である。その粘りやヌメリはトロロのようでおいしい。これは津軽海峡でもヤマセや時化のときに流れ着くという。
志斜武(ししゃも?)という四寸(13㌢)くらいの小魚は、十月半ば、猿紋別、十勝楠里(釧路)の三つの川に群れて上ってくる。
昼夜を問わず上って来るらしいが、不思議と三日限りで見えなくなる。
三つの川以外では上らないというから不思議である。
上の国の川には十月二十日頃になると、土地の言葉で佐(スケ)とよぶ鮭(サケノスケ)の四、五尺もある大きなものが、波しぶきをあげて遡って来るのだという。
幅九寸(30㌢)もある大きな乾し鮭が、支笏湖の奥から大畑に運ばれてきた。
享和三年(1803)に赤川の村で三尺(1㍍)もある鱒が獲れたことがある。
たまたまあるらしい。
文化年間の今年(1807)、正津川でもマスノスケを獲っている。
また、冬に生鮭を庇(ひさし)などに掛けて置き二十日ばかりしてよく凍った頃に、串に刺してあぶって食べる。じくじくしみ出る滴の色が黒っぽいうちは、出来がまだ今いち。したたる露が火に落ちて、白っぽいのがうまい時。皮つきなのでそのままでは硬いけれど、少しあぶると柔らかく食べ頃になる。土地の言葉で、これを類倍(ルイベ)というのだとか。
「ウルップ」と呼ばれる魚はウルップ島に多く、エトロフ島では塔呂(トロ)と呼ばれる海岸辺りと宇留府別の辺りで獲れる魚らしい。
形は鮭より小さく鱒より大きい。
肉色は鱒よりも赤く甘味がある。
この魚を塩漬けしたものが数百本、今年大畑に運ばれてきたが、珍味だった。
また「善甫路」(おぼろ)と呼ばれる魚は、善甫路辺りにだけいる魚らしい。
へ つづく
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