源さんが行く65
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政六年の記録・第四回です。
寛政六年(1794年)の記録・其の四
ロシアから帰還した大黒屋光大夫と磯吉の上京に伴って、去年の冬から江戸に出向いていた医師の今井元安(大畑の人)が、多少のロシア語が話せたため、今年の春、江戸の南部藩の桜田屋敷に召し出され、五人扶持(ふち)の役医に登用された。
しかしその後、訴えがあり、以前無断で松前に渡航していたことが明らかになり、寛政十二年(1800年)役医の職を解かれ、無役の医師になった。
水夫の幸助という者が江戸雇いの船の乗組員として大畑沖に来ていたが、逮捕され江戸に送られた。
監察の赤沢半蔵、役人の中村理右衛門など南部藩と代官所の役人が十二人もやって来た。
聞くところによると、伊豆の海岸で船の荷物を詐取したくせ者であった。
台風のため、奥内、中野沢に被害が出て義倉の稗を三石貸し出した。
六部*1のルールを破ったとして、合議の掟に従って修験の笈*2を道端で燃やすことになったらしい。
しかし、火に関わることなので、我が検断所に一応届け出があった。
「仲間うちの掟とはいえ、やはり町なかで燃やすのは危ないので、郊外の原っぱや洲浜で行うように、また修験の掟に関しては、当検断所は関わりなし。」
と告げると、笈を焼き捨てることもなく、どこかへ消えてしまった。
この六部ども、いったいどんなたくらみがあって訴え出たものか。
松前候が江戸参勤の帰路、当南部藩で鷹を放し、また木崎野牧場を見て、佐井湊から松前に渡りたいと申し出た。
しかし、佐井までの行程の半分も来ないうち、南部藩の宿駅で疲れ切ってしまい、また、いわゆる参勤交代の本筋のルートではないのでこれらは中止となった。
へつづく
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