源さんが行く91
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政九年(後半)の最後になりますが、今回は原始謾筆風土年表・資料編から、面白いエピソードを紹介して、寛政九年の記録を締めたいと思います。
黒森山日曜大権現と坪長右衛門
昭和六十二年に現在地に再建された木野部の玉垂(たまだれ)神社は、江戸時代までは「黒森山日曜大権現」と呼ばれ、薬師如来、阿弥陀如来が祀られた。
1674年、坪長右衛門が勧請(かんじょう)したと伝え、その由来が「大畑町史」に次のように書かれている。
万治の頃(1658~61)、大畑に坪長右衛門という山頭がいた。
ある時、南部藩の御用材を切り出すため、木野部山(現・黒森山)に杣夫(そまふ)と共に入っていた。
あいにくその年は雪が少なく、材木を橇引(そりび)きすることが出来なかった。
そこで、山の神に「何日以内に雪を降らせていただければ、この山に立派なお堂を建てて差し上げます」と願をかけた。
その祈願がかなったものか、三日後に大雪が降り、用材を期限一日前に搬出することができた。
その後、坪長右衛門が忘れたかのようにお堂を建てることを怠り、急死で死んでしまった。
親類一同と近所の人々が集まって葬式の相談をしている最中、棺の中から唸り声が聞こえ一同あわてて棺のふたを開けると、死人が息を吹き返していた。
そして、「ただいま枕元に白装束で黒い馬にまたがった神様が現れ、坪、坪、今回限りは許して遣わすと仰せられたと思ったら、目が覚めた」と語り、
「木野部山に願かけしてお堂を建てることを約束していながら今まで怠っていたのは申し訳ない」と早速、修験大法院覚円のもとに使いを出して、とりあえず木野部山へ小さい祠(ほこら)を建てた。
その後、病気快癒と共に越前より石仏二体を下し、お堂を建立して大安寺の一東(いっとう)和尚を招じて開眼供養を行った。
一体は薬師の立像、一体は阿弥陀の座像だった。
さらに延宝二年(1674)には宮古の黒森山を分霊して前黒森山に新たに一社を建立して黒森山大権現と申しあげ、現在に至っている。
坪長右衛門は元禄十二年(1699)に七十七歳でめでたく往生した。
これにより延命の神として諸人(もろびと)の崇敬(すうけい)するところとなった。
以上、原始謾筆風土年表・資料編からでした。
神様との約束を思い出して生き返ったってスゴイ話ですね。
さて次回からは寛政十年の記録に入っていきます。
へつづく
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