源さんが行く87
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政九年(前半)の記録の最後になります。
寛政九年(1797)の記録・其の参
布海苔(ふのり)の請負では二枚橋から売り渡すことになっていた。
二枚橋川(現・孫次郎間を流れる茶水川)から北側は、二枚橋の人々だけが摘み取ることになっていたが、これに対して湊村から訴えが絶えなかった。
二枚橋の村役は、大畑の僚属(下役)だった。
十二月上旬(今の一月ごろ)田名部代官所に行くには道が見えなくなるほど大雪で、これは困ったことになったもんだと思ったけれど、私(源さん)は出かけて行った。
樺山を過ぎ、平沢の辺りで一寸先も見えない猛吹雪となり、目もあけられなかった。
一㍍を越える雪道に「もうこれまでか」と思うほど難儀した。
同行した供の者が、吹雪の中を片目、すがめつつ、ともかく道案内してくれて代官所にたどり着いた。
しばらく物も言えないほどであった。
ようやく担当役人に会い、訴えの内容を申しあげ、指示を仰いだ。
文書による指示はなく、次のような助言を得た。
「湊村と二枚橋、それぞれ個々に判断を下すと、赤川の里なども訴えてきて問題が複雑になってしまう。」と。
二枚橋の人々は、これまでのような山仕事に戻ることは難しい。
布海苔摘みで何とか暮らしてこられた。
これをきっかけにきちんと生業とさせたいものだと考えながら大畑に戻り、次のような指導をした。
「布海苔の請負のある期間、すなわち一月十五日までは二枚橋川から北側の磯は二枚橋の村人たちが布海苔を摘み、請負にも二枚橋から売り渡す。
しかし、一月十六日からはみんなで折り合いをつけて、望み通り一緒に摘むことができるようにしよう。」と。
これにより万事うまく治まった。
関根橋からキノコ売りが来たのは、天明の頃からである。
このごろは、シメジも売りに来るし、シイタケ売りは来たり来なかったり。
二枚橋は山仕事を生業とする村であったが、今は漁師を生業としている。
歌舞伎役者の市川団三の興行あり。
以上、寛政九年前半の記録でした。
なんとか二枚橋の人たちのためにと動いて、決断した源さんがカッコよかったです。
次回は第六集・寛政九年後半からはじまります。
へつづく
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