源さんが行く86
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
イギリス船の二回目の来航について、資料編から紹介していきます。
ブロートンの第二回目の来航
ブロートンがマカオから二回目の航海に出発祖いたのは、1797年六月のことでした。
この年の五月、プロピデンス号は沖縄の宮古島沖で座礁沈没しました。
そのため二度目の航海は、わずか八十七㌧、乗組員三十五人のスクーナー船(二本マストの小型帆船)によるものでした。
沖縄の那覇から室戸岬、紀伊半島沖を通過して、大島から江戸湾を測量しつつ、八月再び室蘭に入航しました。
水や薪の補給のためですが、上陸してアイヌと接触し、加藤肩吾の安否を尋ねたといわれます。
しかし、この二度目の来航は松前藩内部の動揺と緊張を引き起こし、加藤肩吾との交友にも影を落としています。
加藤はブロートンらに常に同伴し、アイヌとの接触を妨げ、毎日、強く出航を勧めています。
それでも加藤肩吾ならではの交流は行われ、日本全図をブロートンに贈り、誰からもらったかを知らせないように強く命じています。
地図を外国人に渡すことは、後のシーボルト事件にも見られるように国防上の重大事なので、加藤肩吾のこれまでの行為はかなり危険なものであり、本人もそれを自覚して、地図を手渡したことにより汚名・刑罰の対象になると説明しています。
ブロートンの乗ったスクーナー船は、まもなく出航。
これについて翌年、幕府調査団の一員となった最上徳内は、
「にわかに乗り出したるも加藤肩吾の計らいにて、異国人と松前に、両方に内通したらんと怪しみけり」
と加藤肩吾に何らかの疑いを抱いています。
その途中で桑原・茎門島の辺りに停泊していたことが源助の記録からわかります。
へつづく
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