どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政九年の記録に戻ります。
寛政九年(1797)の記録・其の弐
盛岡の画工・玉流が、しばらくの間、滞在した。
自称瑞屠流の書家という若松の多聞源鶴が、やって来た。
文化二年(1805)にも再びやって来たが、その時は能呑鬼(のどんき)と名乗っていた。
二月二十二日、春分の頃だったか。
午後三時ごろ、朦朧とした大気中に太陽のようなものが六つも見えた。
その一つはかすかに光を帯び、やや白みがかった虹色に見えるものもあった。
申の上刻(午前三時から四時ごろ)に北へ向かって二筋の白い虹がかかり、徐々に南の方に移って虹も消えてしまった…。
■イギリス船なのだろうか、それともロシア船なのだろうか。
たくさんの帆を張った異国船が一艘、尻屋の海の方から来るのが見えた。
大畑から八㌔ほど沖を通り過ぎるのを望遠鏡で覗き見た。
その後、大間の茎門島(桑畑のエノコロ島)の和布(わかめ)の瀬に繋留(けいりゅう)しているところへ、土地の漁師の一人が手ぬぐいに米を包んで投げ込んだ。
すると、彼らは銅銭六枚をくれたという。
翌朝には松前城に近いところまで航行していった。
松前の陸地からは大砲でねらい海岸線にはイクサ船が配置され、物々しい中をはるか彼方、、津軽、秋田、日本海の方向へ漕ぎ去って行ったらしい。
次回は、このイギリス船の二回目の来航について、原始謾筆風土年表・資料編から、もうちょっと詳しく紹介してみたいと思います。
へつづく
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