源さんが行く98
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政十年の記録7です。
寛政十年(1798)の記録・其の七
■伏鉦*1の呼び名は、天慶*2の頃の空也に始まり、源空(法然)の頃に定着した。
木魚を叩くのは明和年間(1764~72)に洛陽(京都)の関通から始まった。
大畑では宝国寺の、去年隠居した十世・音戒が伏鉦は高音が耳障りと嫌い、木魚を勤行(ごんぎょう)に用い始めた。
文化年間の今は、どこの寺でも用いられている。
ところで宝暦の頃(1751~64)念仏、無間*3、禅、天魔、真言、律、国賊などをテーマに説法する僧がやって来て、歌題目*4を唱えた。
あでやかな若い女性たちが四、五人で太鼓を打ち町なかを巡り歩いたりもした。
音楽や歌の助けを借りて、様々な情念を呼び起こして人心を惑わし、男も女も愚かにするだけのものである。
しかし、世間では大いに受け入れられ、歌舞伎役者のように宴席にも呼ばれるという。
音楽を合わせ、あでやかな女たちと膝を交えながら念仏を唱えるとは、何と痛ましいことか。御仏の御名(おんな)がみだらな音楽で汚されている。甚だしきは、鐃(どら)や馨(けい)等の楽器をならして踊り狂い、たくさんの女たちが町中を騒ぎまくるらしい。誠にゆゆしきことである。
■昨年までの入札は、例えば桧山一山を巳年から酉年まで(五年間)のうち三年または五年、七年と請け負うものだった。
しかし、今年の冬からは未年に伐採して翌年の申年の春に木場に引き出す。これを一年山とした。
角木出高は八割、寸甫材は二割と定めて、前金は千石につき七両として、一山の斛(こく)数を見積もる。五百石までの増減分を加算し、斛数の過不足は前金分と合わせて決済すると定めた。
今回の入札は樋掛(といがけ)、階子(はしご)、鍋滝、右衛門四郎、長治郎、仁助、湯野股、西股、鴉沢川、木和田川の十山と地郷の山々二十山と合わせて三十ヶ山で六万二千石。
角木二十両、寸甫二十二両で田名部の熊谷又兵衛が請け負った。
この頃、酉年までの期限で駒屋与右衛門が請け負った山々は赤川、大沢、添木(そよぎ)、曽古部(そこべ)、羽色、下湯野股の六山である。
呉又可*6の『温疫論』が将来した。
以上、寛政十年の記録でした。
次回からは第七集・寛政十年の年末から翌十一年の記録になります。
つづく
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